ブックドクター・あきひろのイチニチイチゴン
一日一言 〜千夜一燈 ver.〜

諺「長者の万燈より貧者の一燈」

貧しい人のわずかな志は誠意のこもっている点で、たくさんの志よりもまさっている。
形式よりまごごろの尊さをいう。
                       一日一言 〜千夜一燈 ver.〜 

諺「長者の万燈より貧者の一燈」

貧しい人のわずかな志は誠意のこもっている点で、たくさんの志よりもまさっている。
形式よりまごごろの尊さをいう。

 
 5月  31日 No.1484

恥ずかしいのは、恥ずかしいと思わなくなること!

 僕の今日までを振り返ると、まず、数々の楽しさが先に立つ。でも、その楽しい思い出の中に、必ず恥ずかしいことがチラチラする。その恥ずかしさとは、そのときは恥ずかしいと思っていないことが多いため、今、思うと「よくもまぁ、あんな恥ずかしいことが平気でやれたもんだ」と分かる。楽しい思い出を思いだすたびに、僕の場合、そのときには気がつかなかった恥ずかしさが隠れているので、それがよけい恥ずかしいと「今」思う。まるで、何度も読んできたお気に入りの絵本の中に、僕が気がついていなかった「雲」があり「花」があり「虫」がいたり「色」があり「動物」がいたかのように感じてしまう。これからも、僕の過去にも未来にもまだまだ山ほどの恥ずかしさが隠れているんだろうなと思うと、ほんとに自分に愛想がつきそうだ。だが、一つでも知らない恥ずかしいさを拾おうと思う。知らないと恥ずかしいから。


 5月  30日 No.1483

しかたないことを、しかたないって受け入れて、すぐ切り換える人がカッコいい!

 先日、浜松町のコーヒーショップでアイスコーヒーを飲んでいたら、あちこちのテーブルで「信じられないよ」と言うセリフが飛び交っていた。次の日の朝のニュースで、ああこれだったのかと思った。全日空のシステムトラブルで足どめの影響を受けた人たちがたくさん出た。でも、生きていると、こういうしかたないことが起こるのよ。コーヒーショップでいくら愚痴をたれても、その日の予定を予定どおりにこなせない。だが、あの影響を受けた人の中には、愚痴をたれてる時間をなんとか、その日の予定を一つでもこなす時間にあてようとしたり、ムダにしないようにしようとした人たちが必ずいるはずである。どっちがカッコいい生き方でしょう? トラブルに合ってコーヒーショップで愚痴をいってすごした日を向かえた人と、トラブルに合ったにもかかわらず、愚痴を言わず、すぐ対策を取り動いた人と。このこたえを練習がてら、出しておくことが、いざってときに役に立つし、その人の生きる姿勢としてのカッコよさにつながるのさ。僕も、日々、トラブルが起ころうが起こらまいが、そんなカッコよさや、キップのよさを養って生きていきたいもんだ・・・。


 5月  29日 No.1482

気の合う仲間でしゃべっていると、時間が立つのを忘れるってことがある。他には、何をしゃべっていたのか忘れちまうってこともある(笑)

 僕は時間など気にせずに話をするので、しょっ中、時間を忘れてしゃべってしまうのだが、うちのメンバーと話をしてると、とにかく、より、時間が立つのが早い。体感的に2時間ぐらいしゃべっていたのかなぁと思って、ふと、時計をみると、あっという間に6時間ぐらい立っている。みんなから、「ほんとによくそれだけしゃべることがあるねぇ?」と、毎回あきれられる。それで、6時間も何をしゃべっていたのかなぁと思いだそうとしても、すっかり、忘れている(笑)。まぁ、ボケだしているんだろうね(笑)。でも、うちのメンバーの伸ちゃん、さとかつ、たいちは、しゃべり合いながら、忘れ合うことにも、付き合ってくれるのょ。ありがたいねぇ。みなさんも、いろんな話をメンバーと、忘れ合って、しゃべり合ってみてください。なんせ、忘れ合えると言うことは、何度だって同じ話ができ合えるってことだから、いいのよ!


 5月  28日 No.1481

健康に気をつけて、がんばってしまう人が、体調をくずす!

 日々、健康でありたいと、自分で自分の体のチェックをする状態のことを、「健康に気をつけて」と表現した。でも世の中には、いざ健康に気をつけようとして、自分の体がどんな状態のとき「健康」なのだろうかと疑問をもつ大人がいて、実用書を買ってきて、その実用書に書かれている通りの状態に自分の体をしようとがんばりすぎて、結果、医者に診てもらいに病院に行く人が少なくない(笑)。それだと何をしてんだかわからないよね!?こういう人は、すべての「正しさ」が、常に自分の体の外にあるため、人をたよりにした上で、自分の体や価値観を決めてしまう。そのことに本人は気がつかないため、自分にそのやり方があっているのか、あっていないかのチェックを、自分の体に自分が聞こうとしないので、体調不調をうったえる自分の体からの信号に気がつくのが遅れに遅れ、大きく体調をくずさないと、本人は分からないのである。入院しても分からない人は体より、頭が病んでいるのだろう。実用書や医者を信じることはいいことだが、自分の体に「いいこと」かどうか決めるのは、体であって、頭ではない。これが分からない人のために。
今、どこも痛くもかゆくもなけば、今のその状態が、あなたのベストな健康状態ですよって、申し上げておこう。チェックしてみてください(笑)。
 5月  27日 No.1480

毎日、なにか決まったことをしつづけていると、いつの間にか何ごとも「深さ」を感じるようになるのかもしれない!

 こんな僕にも毎日していることがある。それを一日のどこかで、する。もう、5年続けられた。ほんとに小さいことだけど、意識して、5年も続けられた自分が信じられない。無意識で続いているのは、タバコを気がついたら吸っていることかなぁ(笑)。意識して続けてきたおかげで、意識して、見たり聞いたり触ったりすると、これはひょっとするとこういうことかなぁ?と感じるときがある。感じたことを調べたり、本人に確認すると、よくわかったねぇ、と驚かられる。そのとき、この解釈でやっぱ良かったんだぁ、と思う。途中、深読みしすぎかなぁ?とも思ったけど、最初に感じた深さは、これだったのかと、自分で確認して自分で納得いくものにたどりつけるので、うれしくなる。先人が、どんな小さなことでも、毎日続けていると、感じ方が凡人とは違うようになる、と言ったけど、僕も、おかげで、5年分の身をもって、その意味をちょっとわかるようになったのかなぁ。なんせ、深さを感じるものに出会うと、ワクワクできるのがいいねぇ。


 5月  26日 No.1479

世の中は、ときに、甘かったり、辛かったり!

 「甘いよ!そんな考えじゃあ、世の中渡っていけないよー」って言われたって、そう言われるまで、言われた人は、その甘い考えのまま生きてこられたわけ。言う側は、そりゃ世の中甘くないと感じるほど辛かったんだろうね。だからと言って、世の中、そんなに甘くないよ!って言い切るほど、あんたは、世の中の甘い辛いを、体験したのか?と問えば、たかが数回の辛いことを体験したにすぎないわけ。それなのに、まるで、自分が世の中の辛さすべてを体験したかのように「甘いねぇ・・・」と言ってる場合が多いんだょ。それに、甘いと言われても、本人は、悩むほど考えた上で、その人に思いや考えを打ちあける場合が多いんだから、甘いなって言われても、もうそれ以上、考えが思いつかないわけ。思いつくのは、「ほんとだ、あんたに思いを打ちあけた、今、始めて、あんたに打ちあけようとした自分が、甘かったんだって学んだよ。今まで、いい人だと思ってたのになぁ」と、思われたりして(笑)。僕が今まで渡ってこさせてもらった「世の中」は、自分が上調子のとき、世の中が甘く感じたし、絶好調のときに、その絶好調をキープしようとか、人からの期待に応えつづけようとか、ガラにもなく思ってたときが、結構、世の中を渡るのが辛かったけど、しばらくして思いもしないことが起きて、奈落に落ちたら、その奈落の底にある地獄が住みやすかったの。そうするとさぁ、結構、世の中、まだまだ捨てたもんじゃねぇって思えて、また、この仲間と世の中をがんばって渡って行きてえなぁと思えたわけ。だから結構、世の中は、甘かったり辛かったりしてると思うぜぇ(笑)。


 5月  25日 No.1478

「魅力」はどんな人にも授かっている力なのに、出てる人と出てない人がいるのさ!

 僕は魅力ってヨダレみたいだなってよく思う。魅力を唾液におきかえる。唾液は、どんな人も出てる。ごはんを食べる以外にも、出ている。その唾液が、口の端っこから出てるとヨダレになる。ヨダレをたらしていると、だれかの目に止まり、「あ〜、あきちゃんヨダレたらしとるぅー、きたねぇなぁー」と言われ、みんなが僕のヨダレを見る。ここまでが「魅力」で、いつあきちゃんがヨダレをたらすのか、みんなが注意してみようとしてくれている状態を「魅力的」と言う。つまり、授かっている魅力が出てる人は、口のしまりが悪かったり、口のしまりが「ゆるい」わけ。自分の授かった魅力を出したいなら、ゆるめないと・・・。魅力は努力して身につけるものでもないし、魅力を出す塾はないし、人から習えないものだからさ。自分でわかるでしょ、自分が張りつづけてきたところがさぁ。そこを、ちょっと、自分で自分をゆるめてあげるのょ。そうすると、出だすんだなぁ、「魅」の力ってやつが


 5月  24日 No.1477

久しぶりに見たなぁ、ひじ鉄砲!

 内回りの駅のホームで、電車を待っていたら、反対側の外回りの駅で、アベックが昼間からいちゃいちゃしていた。昼間っからって、表現する僕は、古い人間である(笑)。そのアベックは、向かい合わせで今にもキスをするんじゃないかと思うほど、顔を近づけ合って話をしている。そのとき、彼氏が、チュッてした。そしたら、彼女はうれしそうな顔をして横を向いたと思ったら、ひじ鉄砲(ひじ鉄)を食らわせた。彼氏はすぐお腹を押さえて、イテェ、いてぇーょを連発している。彼女の方は、自分が食らわせておいて、「だいじょうぶ?」と言ってる感じ。僕は、そのとき思った。貴重な日本語がどんどん失われていくばかりじゃないなぁーと。昔のアベックが、つくっていた雰囲気や、素振りも、どんどん失われつつあるんだな、と言うことを。ひじ鉄砲を食らわすシーンを、久しぶりに見せてもらったおかげで、大切なことを失わずにすんだ気がした。でも、でもさぁ、やってらんねぇーやって気持ちが、しっかりのこりやがった(笑)。


 5月  23日 No.1476

先に、自分がどう思われるかを思うより、まず、自分が、どう「思う」かを、思う方が先でしょ!

 僕は、とにかくムチなガキのころから[偉っそう](えらっそうとは、偉そぶるに同じ意)なのである。この態度が人の目についたり、鼻についたりして、あきひろは生意気なやっちゃぁ、あきひろは天狗になってるんとちゃうかぁ?など、多くの罵詈雑言をほしいままにしてきた。普通はめげてしまうらしいのだが、相変わらず、めげずに、えらっそうである(笑)。なんでめげないのかなぁ?って自分で思う。たぶん血の中にえらっそうにしてしまう成分が始終流れているのだろうと思う。頭でいくら直そうとしても直らない。直るものなら直したいと思っているし、思う前にかってに治るものもあるし、思いつづけているから治らないものもある。そんなことを僕は、僕のこととして、ちゃんと知ろうと思っている。でも他人様は、僕を知ろうと思っていってくれるわけじゃなくて、常識はずれの僕を、その常識にハメ込もうと思って言ってくる。そういうやつに限って、それは本気で直そうとしてないからやって、誰もがいいそうなことを、僕にえらっそうに言う(笑)。そうやって言ってきたやつには、「おまえに俺の何がわかるんじゃボケー。俺が本気で直そうとしてるかしてないかなんか、なんでおまえに解かるじゃ?あぁ?人の思いが、おまえには解かんのかぃ?おまえだけは、それが解かる能力者とでも言うんかぃ?俺から見れば人のことをどうこう言えるほど、立派には見えんぞぉ、おぉ?おまえは、おまえのことにだけ世話やいとけぇー。俺は俺の人生の世話をするだけでたいへんなんじゃボケー。そんなこと、おまえには解からんやろ?全部俺のこと知ってからいえーあほー!」と、一気に怒鳴りちらしまくってた(笑)。今は、よう、あんな風に言うてたなぁーって思えるほど、深く反省できたのょ。それは今まで42年間、先に自分のことばかり思わせてもらったからかなぁ。それで自分が何を思ってるか?、今、自分が思ってもいないことを、なぜ思い始めたのか?、何で普通の人には、どうでもいいようなことを、僕は思いつづけようとしているのか?などなど、あげだしたらきりがないほど、僕は思うことがいっぱいある。かと思えば、伸ちゃん、さとかつ、タイチらといるときは、安心しているのか、「さっき、俺は、何を思てたんかなぁー?」って、あとで、ふりかえって思ってみても、まるで、何も思ってないことがあったりと、僕が、いろんな「思う」を思っても、「人から僕はどう思われてんのやろ?」って、思うことはあんまりない(笑)。そんな妙な僕を「思う」思い方のほうが僕の身になってたと`思う'。これからは、ちょっとづつ、ようやく人のことも思えそうに`思う'(笑)。
 5月  22日 No.1475

怒られたり叱られる側には、そんなつもりはなかったという場合が、ままあるので、いきなり怒る人はご注意を!

 僕も多分に、人をいきなり怒鳴ってきたから、えらそうに言えないの。僕に「おまえがこれをしたんやろー」と、いきなり怒鳴られた人の中に、「えっ!?」て驚いた顔をする人がいる。そのとき、この表情は、本人に全く身に覚えのない`それ'に似ていると思い、急に声のトーンを落として、これこれしかじかでおまえ、この前、こんなことしたことないかなぁ?と聞くと、ないですってハッキリ言われる場合がある。このときの僕の心うちは、こいつにちがいないって勝手な思いこみのまま、いきなり怒鳴ってしまったあとのため、ものすごくバツが悪いわけ(笑)。あの穴があったら、地底深くまでもぐりたくなるほどのバツの悪さのおかげで、少しづつ最近はすぐ「ごめんなぁ。いきなり怒鳴ってしもて。てっきり、おまえがしたもんやと思たから。ほんまにすまん。許して」と、本人を目の前に、堂々と言えるようになった。だが、これができなかったときは、どうやってその場をしのいだのか、恥ずかしいやら情けないやらでよく覚えていない。いきなり怒鳴ってしまうクセのある人は、あのバツの悪さを教訓に感情のコントロールを!


 5月  21日 No.1474

思いが強すぎる人も、思いが無さすぎる人も思いが程よい人も、その思いを、ひとつに絞る方がいい!

 そのひとつの思いに、次の思いを重ね、さらに、次の思いを重ね、次々に思いを重ねて行くと、重ねすぎて倒れてしまう、思いの積み木のようである。また、思いが無い人でも、瞬間のヒラメキのような思いのおかげで、ビギナーズラックと言われる体験をすることがある。ひとつの思いへの思い方が程よい人は、普段から調和のとれた生活が自然にできている人だろう。僕はひとつ思いを探すのは、得意だが、そのひとつの思いへ、強すぎる思いを一点集中でついこめてしまうタチなので、ひとつの思いをこめた思いによって壊したり潰したりすることが多い(笑)。思いは常に揺らいでいることが望ましい。あるマンガにこんな一文があった。ある若者にご隠居がさとすようにこういった「思いを持たねば何事も成さぬ。また思いが無ければ、為すことは何ひとつない。わかりやすく言えば、思いとはひとつのシャボン玉を作るさまに似ておる。ストローデで息(思い)を程よく吹かねば弾け、膨らんでも、もう少し大きく、あとちょっと、あとちょっとと慎重に膨らましているにもかかわらず、突然弾け、息を吹か無さすぎても、それ(思い)は、膨らみもせずじゃ。すべては、調和じゃ。思いを調え、和やかに為せば、成すなりじゃ。のぅ、若造!」


 5月  20日 No.1473

優しさを求めて、求め続けて待ちきれず、怒ってしまったら、優しさは、なお遠ざかる!

 そんなに、優しさを求めてしまうほど、多くの人は優しい人に出会っていないのだろうか? 違うはずである。優しい人には出会っているのだが、自分の求める優しさに出会っていないのである。ぜいたくだねぇ。物のぜいたくが、だいたい調うと、精神のぜいたくを人は求める。これは、自分が描いた優しさであるため、自分が描いたその通りの優しさを人に無償で、何のかけひきもなく、日々、差し上げている人でないと、巡ってこない。自分の求める優しさを社会に巡らせてないうちは、自分に巡ってこない。いたって簡単な摂理なんだけどなぁ。そこを理解しないで優しさを求めているうちは、自分の求める優しさは、はるかに遠くあるんだょなぁ。


 5月  19日 No.1472

人を信じることは、とても恐いことでもあるんだけど、それでも信じようとする電波を送信しつづけていると、必ず、受信者が現れるもんさぁ。
一番、恐いのは、もう、だれも信じないと決めたために、あなたを信じようとしてくれた人を、知らぬ間に見落としてしまうことさぁ!

 今日の一言は、僕の人生の反省訓である。僕は、10代のごんだくれ人生、20代の勝手きまま人生、30代の第3反抗期人生と、典型的な、いや、天啓的なゴーイングマイウェイ型天の邪鬼タイプのため、たくさんの人が僕を信じてくれていたにもかかわらず、それに気づかず、僕に人生の先輩たちが注意しようものなら、ケンカをうられたと思って、暴言をはいたり、しかえししたりした。結果、もういいや、誰も信じねぇ。めんどくせぇ、他人のことなんかかまってられっかと思って、より、人を信じなくなった。その解釈が一番恐いことだと知らぬほど、恐いもの知らず、世間知らず、常識知らず、人間知らずの、ほんとのバカだったんだねぇ。今もバカだけど、みなさんだけは、こんなバカは冒されませんように。バカは僕だけで十分でしょ。


 5月  18日 No.1471

図書館は、やっぱり身にしみる言葉の勉強部屋かもしれない!

 今日、僕は、パスカルの本を読みに図書館へ行った。どうせ行くならと思い、ドライブしながら、僕の大好きなお気に入りの景色が見える図書館までいった。それで、3冊パスカルの本をもって、その景色が見えるテーブルへいったら、時期的にタイミングが悪かったのか、中学生や高校生で席がうまっていた。つまり、中間テスト期間なのか、学校帰りに直接、図書館まできて、おしゃべりをしながら勉強しにきている感じだった。ぽつぽつ席が空いているように見えて、近くまでいくと、その席にはスポーツバックがおいてあって自分たちの空間壁を作っていた。しかたなく、お気に入りの景色が見えないところの席に座って読破。その本の中に、僕の心につける薬となる一文があった。

つくづく人間の身勝手さに愛想がつきる。ただ残念なことに、私もその身勝手な人間の一人なのである。

この一文は身にしみてしまった。そうだょなぁ、俺だけじゃないよなぁ、ここの景色見ながら本を読んだり、勉強したいと思うのは。地元の生徒や学生も、この景色を横目に見ながら、テスト期間の緊張感を、おしゃべりしたり翌日のテストで出そうなところを友達と山張って少しでもやわらげたいよなぁ。俺、身勝手だったなぁ・・・いろんなことが身にしみたぜ。


 5月  17日 No.1470

不確かなものが世の中にたくさんある。その不確かなものの中から確かなものを求めるのが大人。「不確かなもの」を不確かなまま遊べるのが子ども!

 今日の一言は、かなり哲学的な印象になってしまった。簡単に言うと、大人は不確かなものが怖くて、子どもは不確かなものを怖がらないってこと。怖いと表現したところを「抵抗」と置き換えてもいいが、大人は正解を求め、その正解を知ることで、安心感・お得感・高率感・満足感・達成感などが付随する。子どもは、本能的に自らも人として、不確かな存在であるため、不確かなものの世界で、自由自在に思考体験を味わえる。僕は、この感覚をもった子どもたちの、不確かなものへ対する親密性が、うらやましくてしかたない。怖いもの知らずの子どもが多いのは、この感覚が多分に残っているのだろう。大人になるって、不確かなものへの抵抗力がなくなることを言うのかもしれない。


 5月  16日 No.1469

たいしたことないって言われて頭にくる人は、自分でたいしたことないわけないって、どっかで思っているから頭にくるんだろうね!

 人から、たいしたことねぇって思われていることを聞くと、ムカッてくる人、人から、たいしたことねぇって思われないように、最初からキチっと生きてる人、いろいろいる。僕の場合、失敗するたびに、僕に失敗という結果を体験させた神様から、頭に直接お告げがある。こう言われる。「あきひろ、おまえは、本当にバカだねぇ。何度、言えばわかるんだ。おまえにたいしたことはできないょ。いいかぁ、おまえはたいしたことないんだから、なんで、できもしないことに、いつめチャレンジしようとするんだぁ。小さいことでいいから、コツコツとまじめにやれ。そこからだ」と。僕は、そうやって「失敗」をつかさどっている神様から言われる。でも、その神様の言われる通りバカなので、たいしたヤツだと言われたいので、自分には到底できないことでも、せっかくのチャンスだしやってみたくなる。それで、やってみると、やはり神様は「失敗」を選択し、僕に味あわせる。そのときまた、お告げがあって一瞬、コツコツまじめに生きてみようかなって思うんだけど、おもしろそうじゃない。失敗を味わうまでの方が、はるかにおもしろいからなぁって思うから、コツコツまじめに生きられないんだなぁこれが。だから、人からたいしたことないって言われても、失敗の神様からしょっ中言われてるので、僕にとって、人からたいしたことないって言われることは、たいしたことないね(笑)。ムカッとくる人は、そのたいしたことないって言った相手を本当にみかえすまでしてみて、「どうだぁ、これでも俺はたいしたことないかぁ」って確認してみたらいいじゃん。意外と、そいつは、そこまでエネルギーつかってみかえすだけのヤツじゃなかったってわかると思う。で、賢い人はそれまでにこれって、たいしたことじゃないなってわかるはず(笑)。


 5月  15日 No.1468

あちこちに鮮やかな緑が増えてきた。この時期の葉っぱと青空はよく似合う!

 ある人から、ちょっとした頼まれごとをされ、ゼファー(単車)に乗って、サクサクっとおつかいして差し上げた。その折、現地まで高速道路で行こうとしたのだが、入口付近にもうけてある電光掲示板に事故渋滞16kmとあったので、下道で行くことにした。その際、どうせ下道なら、山越えで行こうと思い、林道を選択した。これが大正解!。スキスキの道だし、コーナーを曲がるたびに、どの葉っぱもめちゃくちゃきれいな緑をしてるし、その生まれたての葉っぱのおかげで、めちゃくちゃ空気はうまいし、峠のてっぺんまでくると、青空とあざやかな緑で天地がわかれるし、もう最高。この時期に、ドライブの好きな方は、絵本を持って林道をかる〜くながしてみてはいかがでしょう。お洒落な森林浴ができまっせ(^O^)/


 5月  14日 No.1467

昔から、国は、民にウソをついて治めてる。それを知った昔の民は、怒りで国を治め返したのになぁ!

 国民投票制で憲法を改正しようとすることが、近い将来、我々、民に迫ってくる。それも、全投票で、たった1割あれば、憲法が変わる。これ、政治家と一流企業とその下請けの成人だけが賛成に〇印をつけるだけで憲法が変わるってこと。めちゃくちゃ危ないこと。ほんとに、民にとって危ないんだょ、これは!!。国は、民にも参加してもらって決めたことだからしかたないって思わせておいて、その実、戦争や税金や民にとって、ギョッとするようなことがバンバン憲法にあるわけ。〇印をつけた、たった1割のヤツらに。これ、民がふざけんじゃねぇって、民が怒りに怒って平成一揆があちこちで起きてもおかしくないんだけど、今は、起きないねぇ。あと10年もたてば、戦争を体験した民は、この国からほとんどいっぺんにいなくなる。そうすると、国は大喜びする。恩給はなくなるし、戦争を知らない平和ボケした民ばかりになり、好きなようにできるからねぇ。僕は、多分、尊敬すべきジャーナリストの神様、矢崎組長の意志を、微弱ながら胸にひめ、国に買ってもらえそうな、ケンカを売ろうかなぁ。それまでに、もっと放射能クラスの力をつけなきゃな。


 5月  13日 No.1466

美術館には、絵を見に来てる人と、感じに来てる人とがいるような気がする!

 今、六本木にある、国立新美術館では「モネ」展がやっている。僕も見に行ったわけ。すげぇーお洒落な美術館に、サンダルの僕、あわねぇーって感じだったけど、それでも、そばで、ぜひとも見て見たいと思っていたモネの絵が見たいから、その絵の前まで行って見たわけよ。ズッカァーーンってキタァーーーーーッ(^O^)て感じ。僕の横にいた黒木ひとみ形のいい匂いのする女性も、彼氏と腕をくみながら「しびれるわね。ビ〜ンってきちゃった」と言っていた。でも、しばらくして、そばに来た、アベックの女性は、「これねぇ。いい絵ね。印象派って言われるときの絵っていいわねぇ。これ買うとしたら、いくらかしらねぇ」とか言っていた。僕には、そのセリフが出る感覚がまったくないね。切り換えて、しばらく、絵を目で捉え、全身にエネルギーを流し込んで、しっかりその絵を食べてきた(^O^)。美術館に行った帰りは、心の窓ってヤツを、ピカピカに磨いてもらったようになるから好きなんだよね。


 5月  12日 No.1465

つい、つくろう自分がいるのは分かるよ、大人として。でも、それが子どもには分かりにくいのさ!

 僕は、つくろうのがめちゃくちゃ上手。なぁ〜んちゃて(笑)。やっぱ僕は上手くないんだろうなぁ。一応、大人の部分もあるから、つくろおうとするんだけど、つい、思ったまま言っちまうから、結局つくろえてないんだろうなぁ(笑)。そんな僕の救いは、子どもたちの前で、つくろえないことが幸いすること。つまり、子どもたちの前で絵本を読ませてもらうと、子どもたちには、この、あきちゃんって大人は「バカまるだし」だなぁってことが、分かりやすく伝わるらしい(笑)。じゃあ、つい、つくろってしまう大人を、子どもたちはどう見ているかと言うと、「前にぼくに言ってたときと違うじゃん」「自分だって、できないじゃん」「お父さんだって、あやまらないじゃん」とか、言ってることと、やってることが違うのに、大人たちはそれが通るもんだから「大人って分かりにくいなぁ」って感じで見ているのさ。つくろわれると、大人同士でも、分かりにくからなぁ、しかたないと言えばしかたない。だけどさぁ、大人として、子どもたちに接するときは、なにより分かりやすいことに、こしたことはねぇんじゃねぇーの。


 5月  11日 No.1464

昔の日本人は、どんな感性があったのか、ちょいと想像してみよう!

 僕は、昔の日本人についてしょっ中、想像する。例えば暑い日に、クーラーを入れる瞬間とかに、「昔の人は、こんな暑い日にどうやって、涼しさを求めたのだろう」と、ふっと思ったり、携帯電話から、100文字のメールを打つのに、時間がかかっていると、自分で何してんだろ、俺は?と思って、携帯を見つめてると、江戸時代の字がかけない人たちは、どうやって、字のない生活で一生を送っていたのだろうとか、そりゃもう、いろいろ想像する。それで、たまに、あっ、今の感じは昔の人もこんな感じだったんだろうなぁーって、感性が働くときがあると、なんか意味なくうれしいんだよね。最近、みつけた感性は、八十八夜の番に月を見てて、安らいじまったときだった。昔の人も、この月を見て、こんな感じだったんだろうなって、さぁ。


 5月  10日 No.1463

人から感謝されることに、感謝

 人と人が関わる、人が人に関わる、人を人が大事にしようと関わり、人の行い一つで人が関わらざるをえなかったり、関わり合いが常に、人には働く。その関わり合いの中には、人が人に対して、できるだけ「あきちゃん」とは、関わり合いたくないわぁと思う、人への関わり合いが生まれたり、イヤなことやイイことなど、さまざまな感情がうごめく。その一つに「感謝」がある。感謝すること、感謝されることの関係は、人と関わり、人が係わったゆえの、心のあかし。その関係自体に、感謝しながら、また、人に関わることも、人にしかできない関わり方である。
僕は、日本中の子どもたちに関わり合いに行くのだが、教育ママたちは、どうも僕を、いたいけな子どもたちに、関わらせたくないようだ(笑)。
子どもに普段、自分が関わってもらってないのに、突然やってきた僕に、キャーキャーいいながら、関わり合おうとする我が子の姿を見て、やいてるのかなぁ。

『あほか、だれがやくかぁ、ボケ。単純に、おまえみたいなムチャクチャな奴から、子どもを守らなあかんからじゃ。』

そうかぁ。ほな僕は、死ぬまで、日々反省の毎日と関わり合ってくかぁ。かっこええ?

『あほかぁ』

がははは(^O^)


 5月  9日 No.1462

正しく生きようとすることは立派なこと。でも、正しことを押しつけることは、立派なことなんかじゃー、ない!

 この国はまたまだ、集団心理で生きる民だから、個人個人で生きることからうまれる正しいことに、かなりうとい。みんなが決めた正しことを一人一人が、その通りすることが正しことだと思っている。本来、正しく生きようが、正しことがなにか良く分からないまま生きようが、そんなの個人の勝手だょ、と見るのが「正しい」こと。ここで、ん?って思った人は、個人個人で「正しい」と思っていることが、同じ個所もあれば、違う個所もあることを学んだ上で、それでも「正しい」とはなにか、「正しいこと」とはなにかを知らないと、正しいことについて、話せないはず。社会のルールは、一つの基準であり、憲法は国を治めていくときの一つの規準なわけ。どちらも、これが正しいことである、と主張していないから、時期をみて改正や改定などがあるわけ。だから、みんなが、正しいことだと思っていることだから、君もそうしなさいと押しつける正しさというのは、その子やその個人が、なにを正しいと思って生きてきたかなどを、知らねばなにが「正しい」で、なには「正しいこと」で、「正しさ」を、正しくふり分けられないの。わかるかなぁ。これが分からない大人が多いとすると、そんな大人の「正しい」に裁かれる、子どもたちは、正しいの根本もなに一つ説いてもらえないまま、一方的に裁かれる。または、その大人のイビツな正しさで、「正しい」「正しくない」が決められる、大不運に遭うことになる。それって、大人として「正しい」ことじゃないょ。ただ、大人という権力を振りかざして、子どもに無理やり、言うことを聞かすための言葉の道具として「正しい」を使っているだけ。それは、決して「正しいこと」じゃーあ、断じてない。


 5月  8日 No.1461

子どもたちのリクエストに、おこたえするには、ハジをかく覚悟で!

 子どもたちに絵本を読ませてもらっていると、リクエストを求められたり、せがまれたり、脅されたり(笑)する。子どもたちが目を輝かせて、お願いしてくるので、できないとは、なかなか言い出せない。僕もおこたえしてあげたいと思う。だけど、そのためには、ある覚悟を決めなければならない。今の子どもたちは、もっとおもしろく、もっとおもしろくと、次々に前よりおもしいことを貪欲に求めるため、半端なことでは「つまんない、もっとおもしろいヤツ、見せて。見せてくれなきゃ帰る」と言って、本当に帰ってしまう。それだけは避けたい。そこで、「また、ハジをかくかぁ」と覚悟を決める。これは、本当に恥ずかしい。41ちゃいにもなって、子どもたちから、集中砲火の罵声を大笑いされながらあびせられる。でも、それをしない限り、その場にいる子どもたちの精神は全員が満たしてくれない。変わりに、あの、笑顔の束をごっそりもらわせてもらっている。恐るべし、子どもたち・・・。
 5月  7日 No.1460

経験を積んでいる人って、肝心なときほど「楽に行こうぜ」って雰囲気が出るような気がする!

 野球、サッカー、ゴルフなどの試合を見ていて、ここは肝心な場面という時の経験者はみな、楽にキメる!。キメるちょっと前から、キマる感じがする。プレッシャー100tの中で、力んでもしかたない場面なのに、体の力が抜けていて、あっさりキメる。あれが、経験から培われた雰囲気かもしれない。いや、それをコントロールしているんだから、精神技術だろう。あの雰囲気がかもしだせたら、どんな局面も恐いものなしだろう。「楽に行こうぜ」って、自分で自分に言い聞かせるってレベルを遥かに超越しているんだと思う。僕が自分で自分に「楽に行こうぜ」って言い聞かせても、僕の精神と体はなかなか言うことを聞いてくれない(笑)。でも、なにかのイタズラをするときは、不思議なことに精神も体もベストマッチする(笑)。人にものをぶつけるときの、あの、コントロールの良さは自分でも、驚くほど正確にねらったとこに当たる。もし、陰から人にものをぶつける全国大会があれば、僕は結構いいとこまで楽にいけそうな気がする(笑)。


 5月  6日 No.1459

休みの日に、家族全員でご飯食べるときぐらい、怒りを静められないのかなぁ!

 親子そろって、夕食を食べることが少なくなっている家庭が増える中、ゴールデンウィークは、さすがにどこの飯屋さんも家族づれが多い。ある、麻布のファミレスに入っても、ほとんどが家族づれでテーブルがうまっている。一つのテーブルから「さっきから言ってたでしょ、こぼすって!!」とお母さんの怒りの声が店中に響いたのを皮切りに、あちらでもこちらでも、お母さんやお父さんの怒りの声があがる。家族そろって、外で飯が食べられるんだもん、子どもは当然、テンションは高くなり、調子に乗って、ジースはこぼすわぁ、服は気がつかないうちに汚すわぁ、兄弟ゲンカは始まるわぁ、席をたって飯をいっこうに食べようとせずアイスクリームばかり食べるわぁ、店員に注意されることをするわぁ、鉄板でヤケドして泣き出すわぁ、まぁ、次から次にいろんなパターンをやらかし、怒り声をあげさせる。でもさぁ、たまの家族全員そろっての外食じゃん、そんなに、家じゃないんだからさぁ、怒りを静めてあげてよ。やっぱ、うれしいんだょ。どの子もさぁ、家族みんなで飯が食えるって・・・。


 5月  5日 No.1458

子どもの日にさぁ、子どものころ大好きだったことを、もう一度やってみよう!

 僕が小学4年生ころ、僕は友達んちに行って、友達が持っている、人生ゲームをやるのがとにかく好きだった。それ以外にも好きなことはあったけど、その友達のうちは、こいのぼりもあがっていたからよけい行きたかった。それで人生ゲームを大人になって、久しぶりにやったのょ。今の人生ゲームはたくさん種類が出ていて、最初どれが、僕がガキのころやってたヤツか探すのに苦労した。ようやく盤を出して、ルーレットを回してスタートした。結婚で止まるまでに、できるだけ、いい職に付いておくのも、当時のまま感覚が残っていた。それから、できるだけ、車に、子どもをたくさん乗せるのも忘れていなかった。これは、ゴールしたとき、あとで利いてくる(笑)。逆転勝利があるからだ。結果、ぐははは、見事、完全勝利!。ガキのころに完璧にもどって5ラウンドもしちまった。みなさんも、子どもの日に子どものころの自分にもどってみてはいかが。そのあと風呂は菖蒲湯につかれば、完璧。ナぁ〜イス(^O^)


 5月  4日 No.1457

我が子に、お礼を言わさせようと促す親は、お礼を言う、あのかっこいい姿を、親として我が子に見せてないんじゃないかなぁ!

 親の友達が、その親の子どもに、プレゼントを持ってきてくれると、我が子の横にいる母が「人から、物をもらったらなんて言うの?」とか、「ありがとうわぁ?」とか、横の母親が、我が子にお礼を言うように促す場にしょっ中出くわす。その度に僕は思う。親のあんたが、人からなにかしてもらったときに、我が子の前で、心のこもった「ありがとう」っていう、お礼を言う姿を見せてないんじゃないかと。つまり、礼節をふまえた態度で、お礼を言うときのあのかっこいい姿を、親が背中で見せていると、不思議なことに、我が子も、親のようにお礼を言いたいと思ってしまうのか、あの礼節姿のかっこよさにあこがれているのかわからないが、とにかく「お礼は?」と促さなくても、「おばちゃん、ありがとう」とか「おじちゃん、ありがとう」とか、もうすでに口ばしってしまうのである。やっぱ、我が子は良く親の姿を見てるんだよね。


 5月  3日 No.1456

子どもの人間関係を聞くのは、様子を十分伺ってからでないと子どもの心にキズがつくことになる!

 大人ってヤツは、自分たち大人同士の人間関係には、神経を擦り切らすほど敏感なくせに、子どもに対しては、かなり鈍感で無神経な態度になる。だから、何か気になる子や、うわさになる子のことを耳にしたりすると、安易にもほどがあるほどの態度で、子ども同士の人間関係を聞きだそうとする。そして子どもが、教えてくれなかったりすると、怒りだす人もいる。大人の人間関係に負けぬほどに、子どもの人間関係も大変だと思っていたり、気遣いできる大人や親は、子どもの周りに、ほんとに少数しかいない。子どもの人間関係は、大人同士の利権がからみあった人間関係とは、質が大きくちがう。「ちくり」一つで一生の心の形を大きく変化させてしまう人間関係ゆえ、たとえ親とて、簡単に教えてくれるわけがないのである。そこんところを大人は、もっと理解し、さらに子どもに関わる仕事や、周辺で関わっている大人は、大人同士の人間関係より、さらに神経を研ぎ澄まし、子どもたちの様子を心をこめて見守り、慎重に慎重を重ねて伺った上で、子ども同士の人間関係を聞かなければならないと肝に命じておいてほしいものだ。安易に聞いたり、あなたのことが心配だからこそ!みたいな、恩の押し売り型の聞き方は、その子の心に、大人では決して見えぬキズをつけかねないのである。


 5月  2日 No.1455

心の余裕を生むのは、ちょっとしたこと!

 例えば、自分が道をゆずったり、席や列や順番をゆずったり、物をゆずったり、何かをゆずってあげることで、自ら能動的に余裕を生むことは、自分の気持ち次第で、すぐできること。反対に、人から何かしてもらうなどの受動的なことでも、気持ち次第で、すごく余裕が生まれるのだが、とかく人を信じられない多くの大人は、その好意を、おせっかいなことをされたとか、よけいなお世話だと思ったり、ありがたいなぁと解釈できないため、余裕が生まれにくい。ありがたいなぁて思う気持ちを持てるだけで、相当の余裕が生まれるのだが、自分が感謝するより、感謝される方がいいと思っていると、相応する「余裕」の在り方の関係を、自分で片側通行にしてしまっている場合が多い。ちょっとしたことを、してあげたり、してもらったりする中で、ありがたいなぁという気持ちを、人から人へ循環させるとき、余裕は次から次へ生まれるのさ。もし、余裕が生まれないのなら、それは「ちょっとした」範囲を越えてしまっている場合が多い。そんなときは、相手に重すぎないか、ちょっとだけチェックしてみればぁすぐにわかるょ。


 5月  1日 No.1454

心と心が通じ合うのは、一瞬。でも、その一瞬通じ合ったおかげで、離れていてもずーっと通じ合ってる気がするから不思議!

 僕は、一年に一度しか会えない人がいたり、一か月に一度だったり、すでに他界されて、今、思えばあの日だけ会えた人だったり、さまざまな人たちによって形づくられた「会う」をたくさん体験させてもらった。そのほとんどが、僕の心に通じ合わせていただいたなぁと感じるものがあった。だから、たとえ10年ぶりに会う人がいても、その10年のあいだに、その人のことを何度もふとしたときに、思い出していたので、久しぶりに会ったのに、あれから、10年も会ってないの?そんな気がしないなぁーってことがしょっ中起こる。このとき、向こうもしょっ中思い出してくれたことを聞くと、離れていても心と心が通じ合ってることが、この人にもあの人にも同じように起きていたことに、心の底から感謝してしまう。ほんとに通じ合ったのは一瞬なのに、その一瞬から、一生通じ合うから不思議だ。ひょっとして、それが人の「心」と言うものかもしれない。だからこそ、人生は自分一人では、生きられないようになっているのかもね。