ブックドクター・あきひろのイチニチイチゴン
一日一言 〜千夜一燈 ver.〜

諺「長者の万燈より貧者の一燈」

貧しい人のわずかな志は誠意のこもっている点で、たくさんの志よりもまさっている。
形式よりまごごろの尊さをいう。
                       一日一言 〜千夜一燈 ver.〜 

諺「長者の万燈より貧者の一燈」

貧しい人のわずかな志は誠意のこもっている点で、たくさんの志よりもまさっている。
形式よりまごごろの尊さをいう。

 
 3月  31日 No.1423

捨てるとは、元々、とても大切にしてるものを、献上する行為をいったんだけどなぁ。今は、いらない物を処分するって感じになっちゃった!

 書店にいくと、捨て方で人生が変わるとか、上手な捨て方とか、物を捨てられない依存症に関する本がいくつか増えてきた。この国の民は、昔から、物を「扱って」きていた。扱うは、どんな物でも、工夫したり、自分に合うようにしたり、別の形で活かしたりすることをいうが、まさに、物に関する取り扱いが、日本人は本当にうまかった。時代を経て、今、豊かになって、物を「使う」ようになり、使わなくなったから捨てる、必要じゃなくなったから捨てる、いらなくなったから捨てる、古くなったから捨てる、新しい型が出たから捨てる、まだ使えるけど何かイヤになったから捨てるなど、次の活かし方が分からなくなり、工夫したり考えることがめんどうになって、捨て方に人が出るようになった。元々、捨てることは、神様 ほとけ様 おてんと様に、喜んで献上することをいい、それを「喜捨」といった。自分たちが大切にしていた物を、天に還えすことで、また、良きことが子孫に巡り返ってきますようにと、願って納め捨てたもんなんだけどなぁ。心がチクッとも痛まない、使い捨て、買い捨てには、心を捨てることにならないようご注意を・・・。ただ「棄てる」ことは、何も残らないから!


 3月  30日 No.1422

たった一冊でいい!絵本の中に、ちっちゃいころの自分が見えるまで、奥底まで見たり、深いとこまで読みこんでほしいと思う。時間を忘れるほど、おもしれぇーぜ!

 僕にとって絵本は、朝ごはんであり、ランチであり、おやつであり、夕食であり、夜食でもあり、はたまた、心のイシャイラズであり、軟膏であり、ぬり薬であり、あかチンであり、また、栄養補給のビタミンドリンクであり、コーヒーブレイクであり、豚汁だったり、コーンスープだったり、ハット気がつけば神様に会ったような、賢者から知恵を授かったような、お坊さんから諭してもらったような、幽霊が守ってくれたような、ご先祖さまが道を開いてくれたような、親父に肩車してもらってるような、お母んに看病してもらってるような、兄弟で工夫しあってるような、友達とケンカしたあと仲直りしてスッキリしたような感じを味わえたり、往きたいガキのころに正確にもどしてもらえるタイムマシンなんだよね。なんせ、60億人の想像の世界へ、たった一冊の絵本をめくるだけで行けるんだよね。ドラエモンのポケットみたいに・・・


 3月  29日 No.1421

海の恵みにあやかり、夕食にありつける。あとは、心をこめて海神に感謝しながら「ごちそうさま」。これ、旬のごちそう!

 この時期、どうしても、赤だしの味噌汁に、あさりを入れたカイカイの味噌汁が飲みたくなって、海に潮干狩りにいった。土地のおじいちゃん、おばあちゃん、おっさん、おばさんたちが、すでに、貝を採っていた。僕は、おやじから、教えてもらった潮目と、さざ波の泡と砂のホレ方で、だいたい、貝が取れるポイントが分かるので、そこまで歩いた。土地の人は、僕が、どこに行くのか、目でおってきた。僕が、当たりをつけたポイントは、誰も、回りに人がいないところだった。土地の人は、「あんなとこに、貝が、おるかぁ」と言わんばかりの視線をくべていた。僕は、気にせずポイントまで歩いていき、カセ鉤と言われる道具を取り出した。それを使ってひと掘りしただけで、当たりぃー。一気に10数個。しかも、大つぶばかり。ものの15分ぐらいでバケツ2杯(笑)。両手に大量のバケツをぶらさげた僕を見たおっさんとおばさんは、我先に、僕がいたポイントに移動した。夜、カイカイの味噌汁だけで2杯もご飯を食べた。ど貧乏の旬の夕食は、海の恵みにあやかったぜいたくな夕食であった。ごちそうさまでした。そして海神様に感謝です。


 3月  28日 No.1420

損するのがイヤなら、誰もが損なことと思っていることの中にある「得」には、一生、気がつかない大損をすることになる!

 損をしそうなことには関心をもたない日々を送っていると、得になりそうなものばかり関心をもち、その中で「これは、いける」と感心したものに、すぐ動いてしまい、結果、思っていたより得しなかったというようなことばかり起きる。もし、損でもしようものなら、自分が決めたことなのに、文句や愚痴をこぼす。つまり、得をしたとき、自分の目が肥えていたと、うぬぼれ、損をしたとき、人のせいにして、その人に損を弁償させようとするわけ。ずるいわけ。こんな人間は、まちがいなく、糞尿地獄に落ちるだろうが、本人は、悪いことをしているつもりも、人間としてはずかしい様であるなどの自覚はない。得を求めて何がわるい。だれだってそうじゃねぇか。みんなだってズルいじゃねぇか、俺だけじゃない、私だけじゃないという解釈をしている。でもさぁ、だれもが損と思っている中には、見方をかえれば、巨万の富をつかめる「妙案」がたくさんある世界なのね。それに気がつかないのは、損をしたくないはずなのに、大損をすることになると思わない?!。

行基というお坊さんの言葉に、胸をつく説句がある。ある若者が、大儲けの話に飛びつき、その儲けで、親孝行しようとしたが、大損をしてしまい、河原で泣いていた。そのとき、行基はこう説いた。
「得とは物にあらず。得とは生にあり。すなわち、生ずるは、すでに得なり。親の喜びは、何処ありしや。それ、至視すれば、親、得たり。よって我が得とせょ」と。
(意味)
「物で親孝行はできんょ。息子のおまえが明るく元気で、生きてくれていさえすれば、親というのは、なによりなんじゃ。それこそ、まことの得を、親は得られるのじゃ。生んでよかった・・・と。それに気がつくことが、おまえにとっての、本当の「得」なのじゃよ」


 3月  27日 No.1419

各家で、各家のことを教えてあげれば、ほっといても、個性的な子になるょ!

 母性社会と言われて、もう、20数年。まだまだ、続きそうだ。この母性社会の根強い定着期を進行させてる一つの要因に、社会に出るまでに、家の中でお母さんと「いる」時間が多くなったことがあげられる。終戦直後のように家の中で、みなが「家族がすごす」わけではないので、「ただ、一緒にいる」時間だけがあって、母からなにも学んでいないのだ。昔は、家の手伝いやそうじ、子守など、家の中でも子どもと言えど、家族が少しでも豊かにすごすため、手となり足となって家事に加わっていた。その加わりの中に、各家の「個性」があり、家族ひとりひとりに個性が宿っていった。ところが日本中が高度成長の余波をあやかりだすと、どの家でも「物」を求め、「物」が豊富にある家ほど、豊かさを見た目で判断できるようになった。そうすると、よその家より、少しでも「高い物」「でかい物」「広い物」、はたまた、数で、各家が豊かさを確認するようになった。とくに、母が欲しがる「物」を、妻が欲しがる「物」を、父が買ってあげられることは男冥利につきる観があった。我さきに欲しいものを手に入れ始めると、我が子も例外ではなく、「よその子より、少しでも、勉強ができてほしい。少しでも、いい学校へ進んでほしい」と母は我さきに、願った。と、なって、今、家の中で、母は学校で教えることを、家の中で、我さきに、先走りしてでも教えておけば、ウチの子は少しでも教室で当てられたとき、答えることが出来て、クラスのみんなから、賢い子と思ってもらえるに違いない、と思って、どんどん家の中を、教室で勉強をしているような環境をつくった。それは、子どもにとって、我が家がまるで「学校にいる」みたいな感じを受け、その感じをかかえた子どもたちが増えていった。つまり、学校の統一化、平均化を家の中で感じる子どもたちが増えたのだ。これは、学校にいるか、家にちゃんといるかなど、物が「いる」か「いらないか」などのように、感情をもっている我が子が「いる子」か「いらない子」かのような存在としてあつかわれていった。その証拠としての家族殺傷事件は、あとをたたない。これでは、個性が生まれにくい。なぜなら我が子は「物」ではなく「者」だからだ。家の中で、どこでも手に入る「物」ではなく、その家でしかない「もの(思い出となるようなもの)」や、その家でしかない「こと」が、社会に出るまでに、たくさんあった子どもでないと「個性」というのは現れないのである。だから、これからの母は、子どもと「いる時間」を増やすのではなく、できるだけ子どもと「すごすこと」の時間を、増やすだけで、ほっといても個性的な子になるんだけど、はたして、この物欲社会で、精神社会となるような、このことに、本気で気がつく母が何人増えるのか、んんー???って感じだねぇ。


 3月  26日 No.1418

子どもが、汗かいて、なんで怒るのょ。それって、なんか違うんじゃないのかなぁ!

 コンビニに入ったら、汗びっしょりかいている男の子が、ジュースが陳列してあるケースの前でどれにしようか迷っていた。そしたら、お母さんが後ろからやってきて「なにあんたぁ、こんなに汗かいてぇー、なにして遊んでたんよぉ、もうーっ。また、あんた汗かいて風邪ひくで、冷たいものなんか飲まんといてぇー。もうー、早ょ行くよぉ。ジュースなん買わん。また、ジュース飲んで汗かくだけやで」って言って、いやがらせのように行ってしまった。その後を、男の子がぐずりながら着いていった。僕はあったまにきた。子どもは、とくに汗かくねん。汗、かかん子どもなんておらんわぁ。あのおかん、なんやねん。なんで汗かいたらあかんねん。おまえも、我、わすれるぐらい遊んだら汗かくやろぉー。あー、あんなお母さんがおるで、子どもの性格が、ゆがんでしまうねん。僕が、お母さんの代わりにジュース買ったったら良かったなぁ。しもたぁー。


 3月  25日 No.1417

家族それぞれが、がんばっていることを認め合えているなんて、めっちゃええ船やん!

 生まれたときから、だれでも人は、いつか、社会という大海原に、一人乗りようの船で、たった一人でこぎ出していかなけりゃならない。でも、それまでは家族船に乗って、いろんな経験を積む。今は、多くのお父さんが、会社という大型船の乗組員の一人として、朝早くから夜まで、それも60歳の定年まで乗り込んでいる。家族船では、お母さんが、甲板で、一生懸命、子どもが海に落ちないように指示を出している。子どもたちも、家族船の乗組員の一人として、一人乗りの船に乗換え、学校という基地に乗り付け、将来の夢という獲物を取るために学びにいく。いいねぇ。一度生まれたら、天災や事故がないかぎり、船は水の上を走っているので、すぐに止まれない。つまり、命を授かれば、だれだって船と一緒で、一度動きだせばなかなか止まりたくても止まれないもの。それを家族船に乗って、それぞれがそれぞれの役割をはたしていることを、認め合えている、そんな乗組員の家族船なら、どんなシケだろうが嵐だろうが沈むことは、なさそうだ。いいねぇ、そんな家族船。僕も乗りてぇ(笑)。


 3月  24日 No.1416

自分にびびってるヤツに、何か成すなんてことができるわけないじゃん!

 良く、ガキのころ、おやじにこう言われた。「相手にびびる前に、おのれは、自分にびびっとんねん。自分が負けるかもしれへんってな。そんな自分にびびってるヤツに何も成せられるかぁーボケーっ」て。小学生だった僕には、自分にびびるっていう意味が、まったく分からなかった。かっこよく、理解すれば自分に打ち勝てっていいたかったのだろう。分かりやすく言えば、「勇気をもて」って感じだと思う。まったく、分かってなかったくせに、妙に、イタイことを言われたような感じがたっぷりのこったセリフだった。今、僕は新しいことを始めようと思っているの。こんなときだよなぁ、おやじぃー。自分にびびっちゃいけないのは。そりゃ、勇気がなきゃ成したいことも成せられないよな。よし、いっちょ、やってみるか、できないかもしれない、また、みんなに迷惑をかけてしまうかもしれないって思う自分に、びびらずに・・・


 3月  23日 No.1415

ほめることって、言う方も言われた方も、いいことだけど、しょっ中、ほめようとすることは、言う方も言われる方も、なんか違うって感覚があるょ!

 僕は、何度も言ってきたように、ガキのころ、しょっ中怒られていたので、たった一回、ほめられたり、おだてられると、すぐいい気になって、調子に乗るタイプ(笑)。だから、今だに「あきちゃん、すごいなぁ」って言われると、スイッチがカチッて入って、回りの人たちにガンガン迷惑をかけてしまうぐらい調子に乗る。だから、僕を殺すのは、簡単。ほめてくれるだけで、殺されるだろう。これまさに「誉め殺し」。僕は、お酒は飲めないけど、まるで鬼殺しと言われるお酒が入って、ハメをはずした酒豪のように、ほめ言葉ひとつあれば、酔いに酔って、ほろ酔い気分でかってにつぶれていく(笑)。でも、お酒が好きな人も度を越すと、アルコール依存症になってしまうように、僕も、しょっ中ほめられると、アルコール依存症ならぬ、ほめられた依存症になってしまいそうなので、あまり、僕をほめないように(笑)。子どもたちも同じ扱いでいいと思う。たまに、ほめられるからいいんだょ、ほめたられるってのは。そんなに、しょっ中ほめたら、子どもたちが、ほめられた依存症になって、「うるせぇー」って、あばれるかもしれない(笑)。僕、もう、すでに、ほめられた依存症かも・・・(笑)。


 3月  22日 No.1414

みんなと一緒に意味があるのか、みんなと違うことをする方に意味があるのか、本人が決めないと、どっちにしても意味がないじゃないの!

 かつて、「みんなと一緒に行動できる子は良い子。みんなと違うことをする子は悪い子」と言う、先生に出会ったことがある。僕は、みんなと違うことをしたがる能力に長けていたため(笑)、毎日、このセリフを「帰りの時間」とやらで聞いた。日直さんのセリフも、朝から「今日も、みんな仲良く、一緒に行動しよう」と3回も、唱和させられるのだが、僕だけ、「みんなだけやればいい」を3回唱和した(笑)。だってみんなと同じことをすることが、ほんとにつまらなかったから。みんなと違うことをして、毎日、同じパターン、同じセリフ、同じヤツの発言を聞きながら叱られたり、怒られたりしている方がたのしかった。みんなと同じ行動をする子は良い子かぁ。て、いうことは小っちゃな良い軍隊ってか。そうすると、僕は、軍隊の頭をつぶせば、あとは、本人が決めないかたまりだから、何も恐くないと、僕、本人は瞬時に決めて、それを遂行することにめちゃくちゃ意味があった。へへへ。


 3月  21日 No.1413

子どもたちは、たわいもないことで喜べる。だから、イイことでいっぱいになる日が多い!

 子どもたちは、たわいもないことで、大喜びできる。突然、雨が降ってきたと喜び、虹がでたと言って喜び、でんでん虫を見つけたと言って喜び、ツメを自分で切れるようになったと喜び、にんじんが食べたられるようになったと喜び、電車の切符を自分で買えるようになったと喜び、給食でプリンが出てきたと言って喜び、お母さんが早く帰ってきたといって喜び、宿題がでなかったと喜び、「今度、焼肉を食べにいこう」と聞いただけで喜び、飼ってる犬が一緒に寝てくれたと喜び、先生の髪の毛がはねているからと喜び、飛行機がUFOに見えたといっては喜び、おじいちゃんが遊びに来るからと知らせを聞いては喜び、とにかく、たわいもないことがいっぱいあって、それを喜べるなんていうのが、いいよねぇ。いやー、ほんといいね。


 3月  20日 No.1412

一時の休息って、動きたくない人にとっては最高だよね。でも、仕事が面白くてしかたない人にとっては、別になくてもいいんだょ!

 子どものころには、分からなかったものが、大人になると、そういうことだったのかぁと分かるものに「一時の休息」がある。僕は、高校のとき港でバイトしていた。そのとき、パートで働きにきているおばちゃんが、午前10:20〜10:30と午後2:20〜2:30のたった10分の休憩になるたびに「一時の休息」「生き返りの10分」とか毎日毎回言っていた(笑)。僕は別に休憩はいらなかったのだが、おばちゃんたちにとっては、この10分がなかったら、昼までもたないとか、最後までもたないとかになるぐらい、貴重な10分だったらしい。10分のあいだになにをするかと言えば、ただお茶をすするだけ(笑)。この10分休憩をなんで「一時の休息」と呼んでいたのか当時は分からなかった。でも、今は分かる。パートのおばちゃんたちにとって10分休憩は、なにもかもイヤなことを忘れられる、10分間だったんだと。僕からすればたかが10分だが、家族旅行にもなかなか行けず、働かなければならないおばちゃんたちにとっては、されど10分間で、まるで旅行にでもいったかのような、その日のいのちの洗濯タイムだったために、一時の「休憩」ではなく、一時の「休息」とつけたにちがいない。すべてのパートのおばちゃんたちにエールを送ろう。
ファイトー、おばちゃん(笑)。


 3月  19日 No.1411

もし、一つの幸せを100分割できたとしたら、100分の1の幸せであったとしても、気づける感受性でありたいもんだね!

 大人になると、子どものころにダイレクトに感じていた、とても小さな幸せに気づいていないような気がする。いや、きっと、気づいていない。ガキのころ、あの棒つきアイスクリームを食べたとき、最後のひとナメをしたとき「あたりもう一本」と出たときは、幸せ度数1000に感じたものだ。それがこの前、コンビニで、くわえアイスクリームをしている若い茶髪二人連れの横で雑誌を立ち読みしてたら、すぐ横のヤツが「あっ、当たった。こんなところで運をつかっちまったよぉー、チェッ!」なーんていうセリフを、不幸せ感たっぷりで言われると、こっちが不幸せになる。当たりが出るなんて、なかなかないことなのに、不運のように言うヤツには、幸せの前に「不」が着いて生きていくんだろうなぁと思った。僕はこれからも、当たり棒が出たら、幸せ度数1000になってしまう41ちゃいでありたい。


 3月  18日 No.1410

子どもたちがもっている価値感を、なんとか大人に理解してもらおうと一生懸命なんだけど、大人がなかなか理解してくれないことに、いつも子どもたちはどうやって説明していいか分からなくなって困っている!

 大人は、子どものころもっていた価値感を、忘れてしまう。いや、そんなことないょ、大人だってちゃんと価値感をもっているよ、という人に限って、子どものころの価値感ではなく、いつの間にか変わってしまった、価値観のことをいっている。子どもの価値感と大人の価値観では、感じること主体の子どもと、効率を常に観ようとする大人とでは、「感」と「観」の違いがハッキリでる。このあたりの説明を子どもたちは、一生懸命大人に説明しようとするのだが、なかなか、どういっていいか分からず、まだ、説明できないでいる。大人が子どものころの価値感をちゃんともっていたら、子どもたちは、説明なんかしなくても、「大人はいつも分かってくれる」という安心感をもてるのになぁーって、いつも、僕は思っているのさ。


 3月  17日 No.1409

柔らかな口調で、子どもたちに話をする。すると、みんな心が軟らかになるみたい!

 ゆっくり、そっと、子どもたちに話をする。なにか壊れやすいものを持つときのように柔らかく。すると、こっちをじーと見てくれる。次に、話を聞いてくれようとする。次に、なにか問い掛けてくれる。次に態度が柔らかくなる。次に顔がどんどん柔らかくなる。それでも、柔らかく話していると、柔らかな口調が子どもにうつりだす。次に、そっと、近付いてきて、体にちっこい手で触れてくれる。次に、柔らかな笑顔のままになる。そうなって、心もようやくカチカチの状態からポワポワ状態になる。つまり、硬かった心が軟らかな心になる。そうなると、なにをしゃべったってキャハハハ、えーとっていっただけでキャハハハとなる。もう、サイコー。たまにあるんだなぁ。その場にいる子どもたち全員の心が軟らかくなって、キャハハハがははの大合唱になるの。もぅ、やみつきになるね。僕なんか中毒かもね(笑)


 3月  16日 No.1408

子育てを「する」って意識だから「しなきゃいけない」っていう使命感にかられだすのさ!

 今、子どもが授かった多くのお母さんは、子育てを「する」ことに一生懸命だ。子どもは子育てを「してもらっている」意識はない。育ててもらったありがたさを意識するのは、早くて10才前後だろう。とすると、それまでの子どもはお父さん、お母さんにどういう意識をもっているかというと、いないと困る存在と思っている。虐待児でさえ、殴られたり、蹴られたりしても、そんな親でも必要と思っている。つまり、なんだかわからないけど、親が「いる」のである。そう、その通りである。子育てはある時期まで必ず「いる」のである。または、子どもには、親の子育てが「いる」のである。僕は多くのお母さんにここらあたりの認識を改めて、自問自答してほしいと思っている。子育てを「する」という意識から、この子にとって、今、私が「いる」「必要とされている」という意識に・・・。できる範囲でいいから、始めてほしいなぁ。「する」という意識の延長線上には「させる」「させなきゃいけない」という意識に発展し、子どもを追い詰める恐れがある。だが「いる」の延長線上は「している」というing形につながり、お父さんもお母さんも、そして我が子も、自主的になにか「している」っていう安心感が漂うにようになるのさぁ。


 3月  15日 No.1407

苦しいとき、誰だって人の手助けがあれば、「ありがたいなぁ」と思うよねぇ。あの感謝って効くよねぇ!

 子どもがなにか言ってくるまで、そっと見守っていると、そのうち、うまくいかなくなって苦しみだすときがある。なかなかうまくいっていない様子が傍からみていても良くわかる。このとき、そっと見守ってきた、そのそっとのまま、そっと苦しいんでいる個所が乗り越えられるような一言を助言してあげたり、本人に気付かれないところでの手助けだったりが、あとで心に効くんだなぁ。あのときの一言のおかげで、がんばれたとかさぁ、あのとき、一緒にいってくれたおかげで、勇気が出たとかさぁ、その後、何度思い出しても、その感謝は、やっぱ心に効くんだょ。あの「ありがたいなぁ」って気持ちを感じさせてもらえた人の共通点が「そっと」なにかしてくれる点なんだけど、これが心に思いきり効くんだなぁ。思いきり思わせてやろうとしたときは、ちょっとも心に効かないのに(笑)。いいねぇ、あの感謝わぁ。


 3月  14日 No.1406

子どもたちの成長って言うけどさぁー、対する大人の方はなんで「大人たちの成長」って言わないのさ。やっぱ、ずるいなぁ!

 元々、大人たちは、子どもたちの成長、成長と「言う」んじゃなくて、「願う」ものだった。ずっと昔から、この国の大人たちは、すくすく健康で育ってくれればいいって願ってきたの。でもね、そんな子どもたちもいつの日か、大人になると、ついこの前まで子どもだったのに、つまり成長を願われる側だったのに、大人になったとたん、自分たちの成長はもう終わったかのように、簡単に成長を願う側に回ってしまうの。どうして、今まで大人のみなさんが願ってくれたおかげで、自分たちはなんとか大人になったけど、今度はお礼として、大人のみなさんたちの成長を、大人になったばかりですが心をこめて願っていこうと思っています、なーんていう大人は、昔からずーとでなかったんだろうね。変わってるねぇ、この国の大人たちわぁ。自分たち大人は、下から上への成長や上へ上への出世を願うくせに、子どもを見るときは、上から下、上から下へと見下してきたわけ。ずるいなぁ、大人は。都合がいいところだけ勝ってに成長を止めたり、成長しろって言ってきたりしてさぁ。だからこれからは、子どもたちに、大人たちがすくすく健やかに育っていくように、願ってもらった方が、大人と子どもの関係や、親と我が子の関係、家庭関係などうまくいくじゃないかなぁ。だって、子どもたちに願ってもらうのは、ずるさがないから(笑)。


 3月  13日 No.1405

任せたい。でも、任せられない。あの子がちゃんとできるか心配だから・・・。これ、子どもにとって何か違うんだよ!

 最初に結論をいっとくと、子どもからすれば、任せてほしいときに、「よし、やってみろ」と任せてくれる親や大人が必要なの。任せてくれない親や大人は必要ないの。自分が、子どもだったとき、これは任せてほしいと思ったことがあったでしょ。でも、今はついつい「任せてほしいなら、安心して任せてあげられるぐらいのことを、普段、お母さんに見せてみてよ。いつもは、お母さんに口ごたえばかりしてぇ。だからまだ無理ねぇ。任せてほしいなら普段からお母さんのいうことをちゃんと聞くこと。まだ、安心させてもらってないうちは、あなたに、なに一つ任せられないわぁ」って類のセリフをいってしまう。そんな親や大人は、もっと子どもには必要ない。任せられないのは、親や大人の器量の問題なのに、それを先ほどのセリフのように子ども本人にあたかも問題があるような言い方をされると、子どもの心はひんまがるね。ひんまがった子どもは、勝ってに任されてもいないのに、そんな親や大人をみかえしてやろうと勝ってに作業を始めだす。あれはそうやって「僕に任せてくれよ、頼むからさぁ」と言うメッセージなわけ。その子どもは、親や大人を怒らそうと思ってやっているわけじゃない。ただ純粋に、任せてもらいたいわけ。この気持ちをわかってあげてほしいなぁ。あの任されるということが、子どもにとって、どんなにうれしいことかって気持ちを・・・。


 3月  12日 No.1404

子どもを敗者勝者で考える親や大人は、ハッキリいって、子どもに勝つなら、ルールづけにするしかないね。そんな大人わぁ!

 感受性、想像力、行動力、発想力、諦観力、直感力、突発力、鈍感力、構築力、相対力、暗記力、暗唱力、心機力、活性力、復活力、回復力、睡眠力、変化力、再生力、そして、吸収力の以上二十項目で大人は子どもにかなわない。勝てるのは、経済力とルールづけにできる圧力のみ。この二つがないばかりに、子どもたちは、一応、親や大人の言うことを聞いていたり、聞いてあげたり、理解しなくても聞いているようなフリをしている。あとは、大人ってなんなの?って感じをいつも宿している。つまり、子どもの感性が柔軟な間に、親や大人は「しちゃいけないこと」をたたきこみ、できればこうなってほしいという希望をおまけにつけて、監理しようとする。大人の想像を遥かに超えるようなことをされると、どうしていいか分からず困るからだ。僕は、監理してれば分かるってわけじゃないと思うけど、子どもの発想力のすごさはそんな親や大人でも肌でわかるから、たぶん、恐れに似たものだと思うけど、その発想力にどう答えていいかわからないから、大人はルールづけにすることをあみだしたのさ。常に子どもたちに勝つために。そうやって我が子を連敗づけにしておいて、我が子が社会に出たとき、勝者になれったってなかなか難しいんじゃねぇの?。なにかに打ち勝つことで連勝する喜びを授けたいなら、親や大人は子どもの発想力に、恐れず連敗してる方が、我が子が社会に飛び出したとき、勝者になってくれるんじゃないのかなぁ。僕は、我が子を敗者、勝者で括らないから、我が子と一緒にそんな世の中を冷静に見て、いろいろ話し合ってんだけどねぇ。


 3月  11日 No.1403

物が壊れたとき、それを直してでも使いたいと思わせてもらえる物を持っている人は「大切」の本当の意味を知ることになる!

 「物を大切にしなさい」って言ってる人が、本当に物を大切にしているかっていうと、案外、大切にしていない。また、「物を大切にしなきゃいけない」と思っている人に、「なんでぇ?」と聞くと、「もったいないから」という理由を言う。これもわからなくはないが、解釈としてこういう人は、物を「大事にする」ってところを、大切にするっていってるのだろう。つまり、大事も大切も同じ意味だとニュアンスで捉えている。ここでいう物を大切にしなさいっていう「大切」は、物を使っている最中に壊れてしまった。壊れて初めて気がつくのさ。「自分にとって、この壊れた「物」が、こんなに大切な「物」だったのか」と。同じものを、買えばいい。そんなに高くないし、店へいけば、すぐ手に入る。でも、これじゃなきゃならないんだ。だから直してでも、これでいく。そう思わせてもらえる「物」、みなさんもあるのでは?そんな「物」を持っている人こそ、豊かな心の持ち主となるのさ。


 3月  10日 No.1402

四角四面で生きようとするから割り切らなきゃならなくなるのさ!

 数学的に言うと、どんな四角でも割り切れるよね。で、角度的に言うと、どんな四角でも内角の「和」は、等しく360℃だよね。これを人におきかえると、表面(たて前)は、四角四面の生き方をしている人たちでも、内面(内心・本音)は、円と同じく360℃の「和」をもっているってことになるよね。つまり字の通り、どんな四角四面の人でも、心内は、等しく和やかってこと。そうすると子どもらは、限りなく和やかなかたまり。つまり、和の完成は、円だよね。その円は、円やかって読めるよね。もうわかるよね?どんな四角四面の人でも、その実、内面の和は円やかなのさ。あとは、どうやってほぐすかだけど、それは、表面が何角形かによるね。でも何角形だろうが、内角の和は、円と同じ360℃。円は割り切れない。つまり、3.14・・・の、小数点何ケタで、割り切ってあげて、つき合うかなんだよね。小数点、30ケタで打ち切れる人なら、どんな人でも、円やかなお付き合いができるんじゃないかなぁ(笑)。


 3月  9日 No.1401

大人と子どもを分けて見てしまうから、子どもがわからなくなるのさ!

 大人と子どもは、経験値に差があるもの、と、多く大人が思っている。はたして、ほんとうにそうだろうか?。僕が見てきた日本中の子どもたちの中には、大人より、多くの経験をつんでいる子どもがたくさんいる。大人より、マナー・道徳・倫理観がしっかりしている子どもたちもいる。人づきあいも大人より、はるかにうまいし、幅の広い豊かな人間関係を築いている子だっている。大人が思っている以上に、すでに大人的観点をもつ子どもがたくさんいる。さすが、情報社会の申し子たち。いろんな情報や身の回りの大人から、この時代の大人が、どうすれば喜び、どうすれば怒り、どうすれば騙せるかなど、正確に捉えている。そんな子どもたちを、見た目だけで、ただ幼いから、未熟だから、まだ何もわからんガキだ、という分けかたをしていると、どんどんわからなくなる。だが、どんなに情報化が進んでも、文明が進歩しても、感性のするどい大人に出くわすと、子どもは簡単にフリーズをおこす。ほんとうに大人をしている人は、大人と子どもを分ける意識はない。あるのは、大人も子どもも、捉えることに意識があるのさ。


 3月  8日 No.1400

元気があるかないかのチェックぐらい自分でしなきゃ!

 「相変わらず元気ですね」「いつも元気ですね」「どこからその元気がわいてくるんですか」など、僕は年間に軽ーく千を超えるぐらい聞かれる(笑)。自分では、今日はそんなに元気を出していないのになぁって日でも、楽屋で主催者の人に「めちゃくちゃ元気な四十いっちゃいですね?」なーんて言われると、そうか、あれで元気と思ってもらえるなら、朗天狗4人全員そろったときの社用車一号バモスの車内を見たら、ヤケドするんじゃないだろうか(笑)。で、僕が主催者の人に「あなたは、元気がないんですか?こんなすてきな企画をなさっているのに・・・」と聞き返すと「えっ!!??」とつまるんだよね。つまるってことは、自分で自分のその日の元気をチェックしてないんだょ。子どもは、周りのおせっかいな大人が「いつもみたいな元気が今日はないわねぇ」とか、チェックするから、その子の元気をうばう恐れがあるけど、大人は自分でチェックしていないと、自分で元気を失っていく生きものだから、自分で元気チェックしなきゃ。とえらそうにいってる僕が、なぜか、四十いっちゃいになってもみんなに元気チェックしてもらってるってことは、ガキってことなのかぁ!?(笑)。


 3月  7日 No.1399

バランスをとることは生きていく上で必要なこと。でも、すべてにおいて、平均をとろうとすることは不必要なこと!

 はじめに注意しておいてほしいのは、生きていく上でバランスをとることは、ときに必要であるが、常に必要なものではない。なにかの目的を達成するときには、自らバランスをくずしてしまう場合があるからである。でも、世の中には、このことが分からず、なんでもかんでも、バランスと聞いただけで、バランス⇒イコール⇒平均をとる、と解釈している人がめちゃくちゃ多い。生きていく上でバランスをとることは、時に必要な場合があるだけで、常に必要ではない。まして常に平均をとられることは不必要なことばかりである。よって、バランスをとるということは、自分がある程度の妥協が必要になったり、折り合いをつけるために希望が通らなかったり、自分の意思が思いどおりにいかなかったとしても、多少のガマンをすれば、みんな上手くいく、これでみんなの苦労が報われる、みんなの悩みを救うことができるなど「上手く流れだすように」という目的があり、それは「人のためになれば」という点に主眼がおかれているため、バランスがとれだす。これを日本語で表現すると「平均」をとったわけではなく、「均衡」を計ったのである。バランス⇒イコール⇒平均と解釈している人が、重要なポストについていると、どんな指示も平均化させる指示となるため、ある点において誰よりも秀でた才能をもった人には、不満の種を生む。つまり、心がすさむ。だが、バランス⇒イコール⇒均衡を計る人は、この点が頭よりも体がわかっているので、秀でた者には、よりその才能が進歩・進化・発展するような願いをこめ、その道を任し、まだ未熟な者や努力をしているのにうかばれない者は、熟練者のそばにいられるような道を用意してあげる、などの心の配慮、いや深慮といっていいと思うが、そうやって人間関係が上手くいくように、バランスを計ってくれているのである。
 みなさんの周りにも、必ずいるはず。すてきなバランスを計ってくれている人が・・・。


 3月  6日 No.1398

子どもがさぁ、喜んでくれるならと思えばこそのガマンなら、できるってぇのが親ってもんょ!

 「あんたのために、お母さんはガマンして、今まで一言も何も言わずいてやったんだからね」なーんて、セリフを言った親は、子どもがこの世に生まれてくれたおかげで言えるセリフってもんょ、べらんめぇ。我が子を思えばこそ、今まで何度聞こうと思っても、ガマンして、聞かないようにしてきたことか、その気持ちをどう思ってんの?と思うから、とうとう、ガマンできずに、聞いちゃうんだよねぇ、親ってもんは・・・(笑)。それでいいと思う。聞かないように、聞かないようにしてあげていても、今回だけは聞かずにはいられないってことをやらかしてくるんだょ。そのとき、それまで、ガマンして聞かなかった貯金がたまってればたまっているだけ、親のセリフの説得力が増すから、我が子に利くんだよ。それぐらいがちょうどいい。でも注意してほしいのは、我が子が今回だけは「言わずにいられない」ってときと、今回だけは「聞かずにいられない」ってのは、ちょっと違うということ。「言わずにはいられない」方で、そのセリフをはくと、ここぞとばかりに一気に聞かなかった貯金をおろしてしまい、子どもにただ不満をぶちまける形になるだけなので、ご注意ねがいたい。それは、我が子の心に、しこりを残すことになって、どんどん言うことを聞かなくなり、向こうも、「言わずにはいられない」ってことにかねないので、くれぐれも過ちのないように。わかるかなぁ、親として「言わずにはいられない」ってことと「聞かずにはいられない」ってことの違いが・・・。


 3月  5日 No.1397

だいたい、世の中の常識って意味があるように見えてないよね!

 「みんながいるときは静かにしなさい」「耳もとで大きな声をださないでっていってるの!」「人の物をだまってもってきちゃいけないってことは常識でしょ」「人から物をもらったら、ちゃんと教えてっていってるでしょ。お母さん、お礼言わなきゃいけないんだから。それを言わないと常識知らずって、お母さんが思われるの。いーい、ねぇ、ほんとにわかった?」。常識って何なのか正確にこたえられないのに、いつの世にもあるっていうのが、この「常識」ってやつだ。地球が丸いなんていうのは、今は常識だが、昔ある国では、ぞうが大地をささえているってのが、常識だったのさ。笑らっちゃうよね?そう、「常識」って、笑っちゃうことなのに、常識を知らないことは本来、せめられることでもないし、はじをかくのがイヤだからってものでもないし、意味があるように見えて、誰も本質のこたえをいいきれないような意味がないものが多いのさ。だからかなぁ「常識」にしばられてる人に、笑っちゃうようなエピソードが多いのは・・・(笑)。


 3月  4日 No.1396

ひなまつりのときぐらい、娘の成長を祝ってあげたり、ゆく末について、親子でわいわい語ってあげようよ!

 まず、つい先日、幼・保・小・中・高・短大・大などで、卒業や修了された娘さんをもつ親のみなさん、おめでとうございました。「まだまだ、これからもあるのよねぇー」って親御さんもいるでしょう、はたまた「やれやれ、これで一段落かなぁ」と思った親御さんもいることでしょう。昔は、ひなだんのひな飾りをしながら、おばあちゃんが母に、母が娘に「あなたがいいお嫁さんになるように今、心をこめて飾っておいてあげるからね。おばあちゃんもお母さんも、小さいころにこうやって飾ってもらったおかげで、あなたという娘が授かり、人生をかざれたのよぉ。もし、あなたにも、将来、娘が授かったとき、こうして娘の人生が豊かになるように心をこめて飾ってあげてねぇ」などと言いながら、娘の成長を祝ったり、夜は夕食のときに「おまえは、どんな嫁になるのかなぁ」などと父親が娘の将来やゆくすえについて語り、それに娘がかえしわいわい語り合うってのが、娘を授かった家の節句だったの。ひなかざりがないうちは、娘(ひな)に夢ばなしや、願いばなしなどしながら、話の花を飾ってあげてほしいもんだ(^O^)。


 3月  3日 No.1395

いい天気だと、何やっても上手くいきそうな感じがするぜ!

 朝がえりで、ちょこっと寝て起きたら、めちゃくちゃいい天気。まだ、眠たいがこんな日に寝ているなんて、もったいないと思ってしまう僕。新刊本3冊と絵本4冊もって、緑地公園へまっしぐら。公園のベンチで、本読んでて、ふと、あの原稿を書かなきゃってイヤなことを思い出した。でも、このいい天気がたすけてくれた。大丈夫、上手くいくよって空がいってくれた(笑)。普通の人は聞こえないけど、ガキのころから感受性豊かな僕はちゃんと聞こえるの!。いいの(笑)。結果、ベンチを机がてらに、あっというまに400字づめ原稿用紙が文字でうまっていった。いい天気のおかげで、その夜のヤボ用もほんとに上手くいった。お天と様に感謝!


 3月  2日 No.1394

「親の言葉」が、ようやくわかるのは、初老になってからなんだねぇ!

 クソガキだった僕は、とうとう四十いっちゃいの初老。そんな僕が最近、また一つ、親の言葉が、ちゃんと僕の体に、身にしみていたんだなぁと感じることがあった。それはこんなおやじの言葉だ。「ええかぁ、男は、どんなに眠たくても、その眠気さえ、ふっ飛ぶようなことが、そういうときに限って起こるもんや。でも、そのとき、車の運転をせなあかんのなら、まず、ちょっとでええから、寝ろ。これは、わしが車関係の会社に務めとるから言うんやない。一生懸命に生きることに努めてきたから言うんや。まぁ、まだガキのおまんには、この意味はわからんやろうけどな」と。それが、つい先日起きた。翌日の朝までに、どうしても目的地に着いておきたいという強い意思でもって愛車トゥデイを運転していたときに、この言葉が耳の奥にふと、聞こえてきた。高速道路の入口を通過してすぐ左わきに用意された、駐車スペースにトゥデイを止めて寝た。起きたときにわかったことがある。それは一生懸命生きるなら、無理をせず、まず寝ろ!。それが命をそまつにしない証明になるし、その後の一日の流れも、良くなる。一生懸命生きるために、寝ろ!とはそういう意味だったと思う。ありがとな、おやじ。おかげで、間に合ったし、イイ日になった。


 3月  1日 No.1393

大往生でこの世を去ろうったって、その通り去ることは難しい。すべては「浄土」の都合なり!

 また、一人、僕がガキのころから世話になってる人のお父さんが浄土へ旅立たれた。老衰に近いとは言え、そのお父さん(九十二歳のおじいさん)が、いなかったら、その息子にあたる、フミオにぃーやんには、出会うこともなく、何かにつけてお世話していただくこともなかった。そう思いながら、手を合わせ心こめて、心の中でこういった。
「ほんとに、今まで、ご苦労様でございました。どうか、これからはあちら(浄土)で、ゆっくりなさって下さい。僕のおやじが10月に往きましたが、まだ、浄土の入口あたりでウロウロしてると思いますので、もし、見かけたら話かけてあげてください。ほんとに、九十二年間の大往生、ご立派でございました。そして、何より、ご子孫さまとのご縁を授けていただき、誠にありがとうございます。それでは、お達者で」
合掌
僕も、できれば九十年間の大往生をしてみたいものだが、浄土の方は、僕がそうなっては都合が悪いらしく、僕の場合は、すべての都合を冥土にゆだねたそうだ。冥土なら、僕の処理が早そうだ(笑)。
おじいさんに、黙祷(もくとう)
ありがとうございました。
                  あきひろ