ブックドクター・あきひろのイチニチイチゴン
一日一言 〜千夜一燈 ver.〜

諺「長者の万燈より貧者の一燈」

貧しい人のわずかな志は誠意のこもっている点で、たくさんの志よりもまさっている。
形式よりまごごろの尊さをいう。
                       一日一言 〜千夜一燈 ver.〜 

諺「長者の万燈より貧者の一燈」

貧しい人のわずかな志は誠意のこもっている点で、たくさんの志よりもまさっている。
形式よりまごごろの尊さをいう。

 
12月 31日 No.1333

一つのことを、できるまでやり通したときの子どもの笑顔は最高!

 5才の親戚のボウズにリボン結びを教えてあげた。そしたら、いつもは飽き性のボウズが、何度もチャレンジしている。たまに、コマ結びになると「おいちゃん、ほどいてー」と持ってくる。ほどいてあげるとまた、チャレンジし始める。ドラマ二つ分はやっていただろうか。僕がトイレに行こうと立ち上がって、ふっと見たら、ちょうどリボン結びができた。「できたぁ〜」と言いながらボウズが、最高の笑顔で振りかえった。僕が「とうとう、やり通したなぁ。おめでとさん」と言ったら、立ち上がって近寄って来て「じょうず?」と聞いてきたので、「ヘタっぴ」と言ったら、「えぇーっ?!」といって笑みが消えたので、僕が「おまえには、もう、何をするにしても、さっきのやり通す能力が授かったやんけ。さっきは結べるまでやり通すことができたんやから、今度はじょうずに結べるまでやり通したらええやんけ。簡単なこっちゃ」と言ったら、「うん、そやな」と言って、今度は自信をみなぎらせ、最高の笑顔がもどった。やっぱ、ガキはすごいわぁ。


12月 30日 No.1332

もしもの話。
人間が進化して、10歳の子どもになると、3日寝ないで動ける体力がつくようになったら、世の中変わるだろうなぁ

 10歳の子どもに、3日寝なくても動ける体力が授かるようになると、世の中があっと言う間に変わる。勉強の仕方は間違いなく変わる。50時間勉強しても、まだ22時間、何してもいい時間がある。この時間に、大人が目をつけないわけがない。そのため、経済が間違いなく低年齢化になる。いろんな情報が10歳感覚を先取りしたところが大儲けするだろう。子育てにおいても、たった10年間、がんばって子育てをすれば、体力にものを言わせ、家のために働いてもらうことになり、産めば産むほど家が栄えだす。当然、子どもたち同士の社会は、ルールも発想もゆたかなため、ひょっとすると、10歳の子どもたちに選挙権が発生し、常に世の中にタイムリーな世直しが行われるかもしれない。大人が、10歳の子どもたちに面倒みてもらう社会ってどんな世の中になるのかなぁ。僕は、そうなれば多分、子どもヤクザも、ちゃんと現れるはずだら、そいつらをたばねて、裏から手を回す、得体の知れないじーさまとして、何かおもしれーことはないかと、子どもと一緒に、そんな世の中を、みているような気がするなぁ。ああ、早くこねーかな、そんな人間の進化・・・。
 もしもの話でした(笑)。


12月 29日 No.1331

ああいう人になりたいなぁって思う人は、みんな例外的!

 毎年、紀伊國屋で我等が組長こと、矢崎泰久氏プロデュース(製作 花林舎)の会があるのだが、今年はなんと26日1本、27日1本、28日昼と夜の2本と、3日間で計4本のイベントがあり、朗天狗とその仲間たちで、お手伝いさせていただいた。この会の、どの出演者も、その道で芸を磨き、お客さんの心を一瞬にしてつかむことに長けた方々ばかりだった。その舞台姿を横から見させていただき、僕もああいう人になりたいなぁとか、あんなことができたらなぁとか、心をうばわれっぱなしだった。そんな方々が楽屋でみせる姿は、素のまま。その素のままを見ると、さっきの舞台姿が例外的と感じる方もいれば、神がかり的な人なんだなぁと思う人もいる。でも、みなさんの人間そのものに心底、感動した。芸も感動、その人の素のままで、人として最高。やっぱ、すげぇー人は、表舞台やろうが、裏舞台やろうが、例外的な人格者なんだと思う。目配りや気配り、そしてイヤミにならないあざやかな気遣いまで、すげぇー人は、いつでも人徳をもってる人ばかりだった。かなしいかな、今の僕には、無理やなぁ。でも、いつの日か、僕もあんな人たちになりたいなぁ。


12月 28日 No.1330

一つの判断のミスがより多くのミスを誘う、なーんてすりこまれてるけど、ただ一つのミスで終わることの方が圧倒的に多いので、ミスを恐れることなく、何ごとも、誠実にチャレンジすればいい!

 一つの判断ミスが大失敗をおこしかねない、と言われると確かにその通り。でもね、判断ミスをしなくても、ミスはやってくるし、突然の大失敗はやってくる。この場合の多くは、自分勝手な「正しさ」への思いこみが原因だけど。僕はこの大失敗をガキのころから得意としているため、大失敗の経験は豊富だけど、自慢できる失敗は一つもない。ただ「ばかだねぇ」とか「ほんまに、あほやね」というものばかり。そんな僕でも気付くことがあって、それは、日常で判断ミスはしょっ中してるけど、大失敗になる判断ミスって、みんなほとんどしてないのよ。だから、毎回、判断ミスをしないようにって、敏感にならなくても、ここ一番だけ、しっかり判断すればいい。あとは、ミスを恐れずチャレンジチャレンジ。


12月 27日 No.1329

時間を短く感じるか長いと感じるかは、集中力!

 子どもだろうが、大人だろうが、お爺ちゃん、お婆ちゃんだろうが、集中力があれば時間を短く感じられる。集中力を使うには、面白いと感じるものをセレクトすれば、自然にその能力を使うことになる。子どものときは、面白いと感じるものが多いから、集中力をたくさん使うことになるが、大人やお年を召されている方などは、今まで生きてきた経験から、すでに面白いもの面白くないもの、または、損か得かで体を動かす基準をもうけてしまっているので、昔に上手くいかなかったものをもう一度、今度こそは上手くできるようになるぞって言う、自分を乗せる工夫があれば、いくらでも集中力を使い、時間を短く感じられるようにできるはず。集中力におとろえはなしです。はい(^O^)


12月 26日 No.1328

みんな、父や母の良い部分も、良くない部分も知って、でかくなってゆく!

 子どもを育てるとき、良い子育てをしようとしても、受ける側の子どもには、ちゃんと良くない部分をしっかり読みとられてしまうし、良い子育てをしようなんて思わなくても、良い子で育ったり、受ける側の子どもが、親よりもちゃんとした常識を身に着けたりする。子どもを育てるのに、良い悪いで育てようとする判断がすでにおかしいのさ。
 本来、子育ては、どんな動物でも、人間でも安全か安全じゃないか、または反対に、危険か危険じゃないかの中で、親が、未熟な我が子から、大人になるまで「守る」に主眼をおくものである。良い子で大人になっても、大人になって危ないことに手を出されたのでは、守るに守ってあげれない。みんなから悪い子とされたなら、親は、命がけで「当たり前」のことを教えてあげれば、我が子を人目から守ってあげられる。今は、その当たり前の子育てを受け継がれにくくなってるんだと思う。


12月 25日 No.1327

大漁や豊作は祝うものなのに、この国は今、利権にまみれたため、破棄処理するようになった!

 昔は、海の民なら「どうか大漁になりますように」とか、土の民なら「どうか豊作になりますように」と、ことあるごとに手を合わし、その通り大漁や豊作に恵まれると村人みんなで、神社にご奉納して祝ったものだった。だが今、魚が捕れすぎれば値段がさがり、野菜やくだものも、採れすぎれば、出荷すればするほど赤字となり、せっかく、手間ひまかけて豊作となっても、破棄処理するという、時代になった。破棄処理しなければならなくなった時点で、途上国に連絡をとり「そちらが必要であれば輸送料などを持っていただければお送りますが」という発想が国にないため、もったいない極みとなる。これで、食べ物をそまつにしてはいけないという標記を掲げても笑われるだけである。この国の利権主義は、必要な量を必要な量だけ市場に流すように調節することが一番儲るため、大漁や豊作で恵まれたときに、感謝すらしない、とんでもない時代を作り上げてしまった。僕は、いつまでも感謝したり、祝いたいんだけどなぁ。
12月 24日 No.1326

子どもが、甘えたりぐずったりしながら、大きくなっていくことを、今一度、再認識してあげようよ!

 子どもがぐずったり、甘えたりするのは、どんな動物でも表れる親に対する親愛の証し。子どもによって差異はあるが、だいたい10才ぐらいまでが女の子、12才ぐらいまでが男の子らしい。その時期を越えると、たっぷり甘えられたから、もう、甘えなくてもいいやってほど、しっかりするし、たくさんぐずったおかげで、ぐずったあとに、お母さんがどういう風に接してくれるのか、お父さんはどう見ていたのか、だいたい分かったし、その上でぐずったって、お父さんお母さんでも、どうにもならないことが、この世の中にはあるんだ、ということもおぼろげながら分かってきた、そんな感じで大きくなってゆく。だから、今、甘えん坊の子やぐずりん坊さんの子で、手をやかれている親のみなさんには、大変でしょうが、どうかあと少しのあいだ、そう中学生になるぐらいまででいいです、あとちょっと甘えさせてあげてください。あとちょっとぐずっても怒らないであげてください。


12月 23日 No.1325

一人一人みんな考え方が違うと言いつつ、子どもたちを、みんなひとつの考え方に統一しようとする大人たち!

 教育改革を無理やり決行した政府。いずれ、その方向がまとめられたものが各幼・小・中・高校の子どもたちを一つの方向へ追い立てる。一つの方向へ向かわせる現場の教室では、一人一人意見が違って当たり前という雰囲気は間違いなくうすれ、みんなと違う意見をますます言い出しにくくなり、その間に一つの向かうべき決めごとが次々に決められていく。ある子には、やりたくないことをやらされる毎日となり、学校が、まるで会社化する。会社なら、ひと月がまんすれば給料がもらえるが、学校は会社のように仕事をする場ではない。学校はものを学ぶ場である。ものを学ぶ場では、一人一人考え方が違うということがあって当たり前であり、人と違う考え方を安心して出せる場であってこそ、別々の考え方をもつ人へも「あっそうか、そのことは考えていなかった」とかの学び合いが発生するのだ。でも、国を愛するとは、どういうことか、学ばせようとさせる現場で、考え方が一人一人違えばいいが、日本中の子どもたちみんなが、「国を愛するとはこういうことだ」と一つ方向の考え方で統一されたなら、この国の将来は、間違いなく暗いね。
 ますます大人が一人一人しっかりしないと・・・。


12月 22日 No.1324

自分のことを誰も分かってくれないと思っていたら大間違い!

 自分のことを誰も分かってくれないと思っている人は、誰もっていうほど人に出会っているのだろうか。たぶん数名の人間関係で出会った世界の中だけだろう。間違いなく言えるのは、そんな風に思っていても親だけは、しばらく会ってなくても、だいたいの事情を説明すれば、すぐ親だからこそ言える、厳しい一言やイヤミまじりの一言を浴びせられるだろう。また、その一言は、よーく考えると的を得ているため、何でしばらく会ってなかったのに、今の自分にぴったりの言葉をくらうだろう。親とは、しばらく会っていなくても、どうしてそうなったのか始めから知りつくしているかのような一言をもっている。どうして誰も分かってくれないなんて思うんだろう。ちゃんといるじゃないか、しばらく会ってなくても、そんなあなたを分かってくれる人が・・・。
12月 21日 No.1323

そろそろさぁ、子どもたちのために、良い影響と悪い影響に分けて、悪い影響だけ世の中から排除すればいいって考え方の、他も考えようよ!

 そもそも、何が子どもたちにとって良い影響で、何が悪い影響なのか、また、だれがそれを決めているのだろう。多分、自分たちがされて良かった影響は良い影響で、イヤだったことは悪い影響ってだけで、よく議論もせずに決めてしまう一部のグループがあちこちに発生し、そのグループ同士が生んだ考え方が、いつの間にか常識となって根強く残っているんだと思う。一旦、この常識ができあがれば、この国独特の誰も責任をとらなくてもいい形ができあがり、大人にとっては、個人的に責任を問われることはないので、めちゃくちゃ安心だし、さらに子どもたちには、良い影響だけを残してあげられ、悪い影響にだけ目を光らせればいい、なーんてことになる。そして、悪い影響だけ排除しつづければ、良い影響だけがあたかも残るような気になって、だんだん、なまけだす。この時点で、どこが良い影響か、誰もチェックしないことの方が悪影響だと思う。だからこれからは、今まで子どもたちのためにと言って良い影響と悪い影響で分けてきた大人たちのために、子どもたちに、自分たちにとって、良い影響を与えてくれる大人と悪い影響を与えてくれる大人と分けてもらう方が、ほんとうに子どもたちのためになる良い影響だという考え方をしてほしいものだ。ちょっとはワンパターンで、なまけつづけてきた考え方に幅が生まれることだろう。


12月 20日 No.1322

過ぎたことが気になるのは、自分の弱点が原因だったりするのさ!

 今まで何度、過ぎたことを気にしないってセリフを聞いてきただろう。僕は、あまり過ぎたことを、気にしなさ過ぎるみたいだけど(笑)。どんなことでも、結果さえでれば、それだけでいいって思っちゃうからかもしれない。そうは言っても世の中には、過ぎたことをいつまでも気にしていたり、気にしないようにしようと思えば思うほど、気になってしまう人がいる。それは、意外にも、自分の弱点が原因だったりすることを、無意識に補おうとする心の働きの表れだったりする。つまり、あまりいい結果がでなかった場合が多いが、なぜ、うまくいかなかったをよくよく考えていくと、自分が苦手にしていることが原因だったり、昔に辛い思いをしたことに、起因していたりする。それが分かれば、無意識に何とかそれを乗り越えようとする心の働きから、有意識の心の働きになり、今度、同じようなことが起きたとき、ここに注意してみようと意識できるはず。こう、思えるだけで気にし過ぎることがなくなり、ただ気になる程度に変わるはず。


12月 19日 No.1321

なにげないときの、なにげない一言が、ものを通じて呼びおこされる!

 おやじの四十九日の法事が終わってから、時間が少しでもあれば、おやじから頼まれていたおやじの友達に、おやじの代わりに僕が直接会いに言って、いろんな話をしているのだが、その折、おやじの高校時代の友達にお会いしたとき、その人が釣りで使う、ウキをテーブルにおいた。その瞬間、僕が小学校2年の夏休みに、おやじの単車の後ろに乗って、その人の家に一緒に遊びにいったときの帰り際のシーンを思い出した。おやじがその友達に「これは、おまえにやるわぁ」と言って、おやじが、その友達に釣りで使う、ウキを渡したのだ。その友達は「ええのか、こんな大事なもん」と言っていた。で、そのテーブルにおいたウキをみながら、おやじの友達はこういった「あきぃー、このウキはのぅ、ほんまにおまえのおやじが大事にしてたんや。おまえのおやじは、自分が一番大事にしてるもんをこんな俺にくれる器量の持ち主やった」と言ったので、また、帰り道のシーンを思い出した。信号で単車が止まったとき、後ろからおやじに僕が聞いた「なぁ、おやじ何で、いつも手入れしてた、あの大事なウキをあの人にやったん?」と。そしたらおやじが「あほかおまえわぁ。大事なもんやから、大事なツレにやれるんじゃ。普通のヤツは大事なもんは、自分のもんにしてまうけど、それはほんまにツレを大事と思とらんからや」と。大事なウキが、大事なおやじの話を思い出させてもらった。またまた、おやじと通じたような気がした。
 ものに感謝。


12月 18日 No.1320

大人の中には、子どもが一人で遊んでいると「かわいそう」と思う人がいる。その大人の思いこみが、問題だよね!

 小学5、6年生ぐらいの子が、空き家の前の石塀にすわって、プレステ2をしていた。僕がその前を横切ろうとしたら、目があったので
「おもてでプレステとは、おつやねぇ」
と言うと、ニコっとしながら
「家の中やと、お母さん、うるさいもん」
「なんで?おもてで遊んでこいってか?」
「ちがう、一人で遊んでばっかやから」
「なんで、一人で遊んだらあかんねん。一人で遊んでても、おもろい遊びが、世の中にはいっぱいあるやろ?」
「僕も、そう思うけど、お母さんとお母さんの友達が、友達と遊べやん子はかわいそって言うんやもん」
「なんで、一人やとかわいそうなんや?」
「なんかな、みんなと遊べやん子は、なんかあるからやって」
「なんかってなんや?」
「わからん」
「あんなぁ、そんなん気にすんな。おいちゃんも、ガキのころ、よう、一人で遊んでたわぁ。そんとき、一人で遊んでても、かわいそうなんて言う大人いてへんかったで。そんなこと言う、大人の方がちょっと問題やのぅ。君は大丈夫や。しっかりしてる。ええかぁ、一人で遊んどると、いろんなこと考えるから、めちゃくちゃ想像力がつくねんでぇ。その想像力が、君が大人になったとき、めちゃくちゃ役に立つからな。ほな、おいちゃん行くわぁ」
「うん、ありがとぅ」
「いやいや、おいちゃんは礼いわれることなんにもしてへんで。君、えらいなぁ、そやって、礼が言える君は、いずれ、みんなに好かれるわぁ。ほなな」
「うん」。
僕の話につきあってくれたあの子に、いいことがおこりますように・・・。


12月 17日 No.1319

二人三脚でコケることなく前に進むためには、結んだ足に合わせ、呼吸を合わせ、歩幅を合わせ、スピードを合わせなければならない!

 呼吸・歩幅・速度の3つを合わせなければ、必ずコケてしまうのが二人三脚。前へ進むために、不自由な足を、互いにどう、自分に合った動きにするかがカギとなる。夫婦、親子、コーチと選手など、二人で前に進むためには、実際の二人三脚と同じく、3つを同時に、それぞれがしなければならない。要するに、親子の関係で言えば、呼吸にあたるのが、お父さんお母さん共に、同じ子どもに対する願い、夢と言っていい、次に歩幅にあたるのが、お父さんが家族を思うときのキョリ感とお母さんが子どもを思うときのキョリ感をそろえるということ。どちらも、近すぎず、遠すぎず。お母さんにだけ任せきりにならないようにといえば分かりやすいだろう。最後に速度だが、子どもの成長に合わせて、お父さんもお母さんも話をしながら、許す範囲(行動範囲含む)を広げてあげる。早すぎず、遅すぎず、締めすぎず、緩めすぎず、徐々に・・・。この徐々にっていうのが、二人三脚っぽいなぁ。


12月 16日 No.1318

心にしみる思い出があったのに、忘れてしまうことがある!

 僕はたいてい感動したことは覚えてしまう。でも、ついこの前、ある人と話してて、その人と初めて会ったときの縁の不思議さを話していたとき、ふと、そのときのセリフと同じセリフを、十年ぶりに聞いたとき、ああ、こんな心にしみるいいセリフを、僕は何で今まで忘れてたんだろうとはたと気がついた。その人は、久しぶりにあったのに相変わらずの人の良さで、だれに対しても、腰のひくい、ほんとにありがたい気遣いをする人だった。その人を家まで送っていく車内で、こういった。「人というのは、みんなどこか変な部分をもっています。でも、変な部分をもってるから、その変な部分にぴったり合う変なものを無意識に求めていると思います。倫ちゃん(僕の別の呼び名)は、ほんまに変ですから、いろんな変な人が集まります。もちろん私も変ですから、吸い寄せられました。」と。私も変ですから吸い寄せられました、が妙に僕の心にまたまた、しみる言葉となりました。このセリフ、もう忘れない。


12月 15日 No.1317

ご要請やご要望に、お答えするって、ほんと、たいへん

 小学校の講演会で、子どもたちが元気になるように、読み聞かせてやってください!って類の要請や要望があるときがある。子どもたちが元気になるように、ということはそんなに元気がない子ばかりの小学校なの?、それとも、元気がなくなることが、その小学校で起きて、取り戻させてあげたいの?とか、いろんな解釈をしてしまう僕としては、そんな要請や要望に答えられるような自信はまったくない。ただ俺が元気なまま会場に行くことはできるから、できるだけ、元気が維持できるよう、本番直前まで、どこの会場も、たばこを吸ってコーヒーを飲ませてもらってる。そして、そのまま、41才(よんじゅういっちゃい)の、その日のベストの元気を、子どもたちに、ぶつけさせていただくわけ。結果は、僕が、子どもたちの元気玉をくすぐってしまうのか、わぁーってなって、いつも、こっちが、子どもたちから元気をさらにいただく形になるの。だから、僕はほとんど何もしてない感じなのに、子どもたちが勝手に、元気になってくれるの。回りにいないのかなぁ、そんな大人が・・・。とにかく、子どもたちのおかげなわけ。だから僕は、どの会場も、ご要請どおり、子どもたちを元気にさせてあげようなんて、乗り込んでないわけ。それに、そのご要請に答たくても、僕では答えられないわけ。だって、もし、ご要請どおりの、僕が、よーし、子どもたちを元気にしてあげようなんて、そんな、おごりたかぶったオーラを放って、子どもたちの前に立つことほど恐ろしいことはないから。それが、どんなに恐ろしいかということも、実は子どもたちから教わったんだけどね。だから、要請どおりにお答えするのって、ほんとはできないんだけど、結果、何とか、要請された形に、近くなるから、要請に答えるのって、ほんとにたいへん。
12月 14日 No.1316

練習のときも、想像力はとても大事!

 練習をする場合、一人でする場合と、指導者が前にいて、団体で練習する場合がある。後者の場合、運動会の全体練習を思い浮かべてもらえれば分かりやすいだろう。どちらの場合でも、想像力はかかせない。何も想像せずに練習することは、やらされ感ばかりがつのり、やらされたことを多少、体が覚えてくれる程度である。だが、具体的に、こうなって、こうするために、今、これを練習しとかなければならない、と想像した場合は、たとえ、それが数十回の練習だとしても、そこには、絶対勝つ、絶対きれいにきめてやる、絶対成功するなどの「意志」がこもっているので、本番さながらの身のこなしを体が覚え、成功をたぐりよせるためのきっちりした練習となる。ただ、回数をこなす練習にも、何か、本番さながらの想像をくわえて練習したいものだ。


12月 13日 No.1315

本当にがんばらなければならないときって、がんばろうとしなくても、体中に気が張るもるのさ!

 普段、体がしんどくて辛いと言っていても、いざ、家族の一大事、友達の一大事などが起きると、飯をたべなくても全然へっちゃらで、看病したり、つきそったり、お手伝いできるもの。自分のどこに、こんなパワーがねむっていたんだろうと不思議になるぐらいに、気が体中に張り巡らされる。体というのは、とても、うまい具合にできていて、いざというときは、頭より先に動いてくれる。でも、これは、ピンチからぬけられるまでのことで、ピンチをぬけた瞬間、「よかった」と頭が作動し、今度は自分がほっとして倒れてしまい、みんなをいざの状態にさせてしまいかねないほど、気力・気合い・気丈が混ぜ合わさった「気」を燃焼したために起こるのものである。だれの体にも、いざのとき働く「気」が体には宿っている。ありがたいものである。


12月 12日 No.1314

子どもに意思表示をさせようとしなくても、子どもは意思表示をしょっ中してるんだけどなぁ!

 小学校の子どもたちに、しっかりした意思表示を身につけさすには、どうすればいいか、現場の先生たちはいろんな工夫をしている。この意思表示なんだけど、例えば学期ごとにクラスで係りを決める。このとき「はい、僕、体育係りをします」「はい、わたしは、保健係りをします」というちょっとした係りを決める場合は、わりと手があがる。でも、学級長を決めたり、生徒会に立候補する場合や、みんながいやがる係りを決める場合は数がへる。当たり前である。これこそ子どもたちの「いやだ」という意思表示のあらわれだからである。この当たり前を、子どもたちの意思表示と捉えられたなら、どんなに子どもたちは救われるかわからない。
子どもたちはいつも感じているはず。
先生は、クラスの子みんな、すすんで手をあげさせたいんだという、先生なりの意思表示をしているんだということを。これも一つの子どもたちの意思表示なんだけどなぁ。


12月 11日 No.1313

大宇宙の中の、地球という星の、日本という国の、日本人の、社会の中で何も起きないわけがない。だって宇宙なんだもん!

 大宇宙を想像して、現実を見ると、小さいことばかり。その小さいことの中で、さらに小さいことを守ったり、こだわったり、プライドをかけたり、ほっとけなくなったり、戦ったり、一ヵ所にあつまったり、とにかくいろんなことが起きている。何もしない人を非難する人がいるけど、ほっといても必ず、社会と接触せざるおえないことが起こってしまうのが、宇宙空間なの。だから、この宇宙にすんでいる日本人も例外なく、それぞれに何か起こって当然なわけ。だって、宇宙人にはちがいないから。自分は何もしなくても、宇宙に回され、太陽系に回され、地球に回され、社会に回されてるわけ。だから、どうせ何か起こってしまうなら、自分の意志を起こして、自分で回せばいいわけ。えぇっ!?何がいいのかってぇ?
 それは回してみれば分かります(笑)


12月 10日 No.1312

逃げるって、負けることなのかなぁ。そうじゃないでしょ!

 一旦、始めたことを途中で放り出そうとしている人に「逃げるのか」っていう、映画やドラマのワンシーンがあるが、本来、逃げることは生き残ろうとする、すべての動物が持っている本能である。一旦逃げて、勝ちに行く。次に勝つために、一旦逃げて、天下をとった徳川 家康もいる。逃げることは「負け」ではない。「負け」のように見えるだけ。頭を使う戦略家は、負けたように見せる策略を、どのタイミングで活かすのがいいか、思いを巡らす。頭を使わず、体力勝負の敵には、よくきまる。逃げて、油断さす。逃げて、力を蓄える。逃げて、展開を変える。逃げて、生きのびる。逃げて、誘い込む。逃げて、・・・何々する方法があるのに、使わない活かさないでは、身を守る当たり前のことができない。逃げることは、決して負けが決まったわけではない。


12月 9日 No.1311

明るく・元気に・たくましく! を大人の人生訓にしたらいいのに!

 よく小学校で「明るく・元気に・たくましく」という類の校訓が掲げられている。
あれさぁ、子どもより大人の人生訓にした方が利き目があるような気がする。それで子どもには訓なんか掲げず、世の中が何を求めているのか、一つ一つ分かりやすく掲げてあげるわけ。お金を稼ぎたいと思っている子には、将来、こんな職業があって、その職業に就くには、高卒なら、こういう方法、大卒ならこういう方法、大学院までいけば、ここまでが免除で、こっからこの方法で、すぐ、こういうポストに就けて、初任給は2006度(参考)でいくらになると、分かりやすく掲げてあげるわけ。これが教育の場にこの国の授業としてないわけ。世の中にいずれ出るのに、世の中に出るまで、世の中がどうなっているかということを、この国の子どもたちは、知らないことがあまりにも多過ぎるわけ。それは教育が片寄ってる証拠なわけ。片寄らず、全部をいう教育は、今の大人の社会は、一部の人を除いて、全体に、明るくなんかないし、元気なく、すぐ疲れるし、たくましい姿を見せてやりたいと思っているけど、すぐ、くじけちゃう、大人ばかりがつくってる社会になっちゃった、僕もその大人の一人だけどねと、教えてあげることが、片寄ってない本当の教育なんだけど、なかなかそうやって本物のセリフをいう大人がいないんだなぁ、これが。つまり、「子どもたちに希望を!」って、希望をもっていない大人がいくら言っても、言った瞬間、それってなんか違うなぁーって思える大人がふえなきゃ、子どもたちが、大人をなめてもしかたないわけ。子どもたちをなめてる大人を、大人ってバカだなぁーって、子どもになめられるぐらい、大人のだましを見抜かれてることを、大人が知らない限り、また、子どもはそれほど鋭いし、恐るべき感性で常に一人一人の大人を吟味している立場にいるってことを、大人が真剣に学ばない限り、ますます子どもになめられつづけるだろうな。今回は、ここでおしまい。


12月 8日 No.1310

恨みを持って人のせいにする人、憎みからくる責任逃れする人は、心の中に、残酷なことをしても平気な鬼がすみはじめ、最後は心の鬼に、人生を喰らわれてしまう!

 我が子を殺しておいて、人のせいにする人、好きな男といたいがために、前の夫との子を家の中で虐待したり、好きな男が我が子をなぐったり、蹴ったりしても、止めることもせず、さらに「あんたのせいょ。わたしがこうなったのも」と、自分の人生が上手くいかなかった恨みを、すべて我が子のせいしてはらそうとする母の心には、残酷なことを平気でできる鬼がすんでいると思う。また、自分が会社でむしゃくしゃすることがあると、家に帰って、会社にはなんにも関係のない妻や子にあたりちらし、最後は、会社への憎さを、妻に責任転化させ「おまえが、家をほしがるからこうなったんだ」と、自制がきかなくなって殺してしまい、山に埋めにいくために、まだまだローンのたっぷり残っている新築の家の中を血の海になるまで切りきざみ、バラバラにして袋につめ、山まで行って捨てにいく。捨てたあと血の海になってる我が家に帰り、人を殺しておいてビールを飲んでひといきつく父の姿は、心にすんでいた鬼が表にでてきてしまい、鬼、そのものだろう。だれの心にも鬼がすんでいるらしいが、その鬼を育ててしまうのは、恨み、つらみ、憎みからくる、人のせいにしたり、責任逃れをくりかえすことが鬼の栄養になって巨大化していき、最後は自分が喰らわれてしまう。鬼が育たぬよう、人を恨んだり憎んだりしないように。くわばらくわばら。


12月 7日 No.1309

計り知れないパワーを、人間は、みな授かっている!

 大人になると言うことは、社会に対して適応力をつけていくこと。適応力を身につけていく上で、自分自身のパワーの質がわかってくる。例えば、小学校時代の僕は、授業中はパワーがどんどん落ちることを知った(笑)。当然、休み時間はパワーが満ちてくる。中学校時代は昼間はパワーが落ち、陽が落ちるとパワーが満ちてくる。高校時代はとにかく、昼間でも、じっとすることができないほど、パワーがあまり出したが、じっとするためにパワーを使うので上手く相殺させることを工夫しはじめた。もちろん、夜は全開。社会人になると遊びも仕事もボランティアも昼夜とわずパワー全開にできる場を見つけた。それはうれしかった。パワーを注げる場があることで人は生かしてもらえるから。パワーを注げる場がないまま、生きてると、授かったパワーが自分の精神を食いつくしにくるから、病になり、病から健康になるために、パワーが自らの開放を求め、うごめきだす。パワーは、使うより、注ぐ方がいい。


12月 6日 No.1308

記憶は頭に記されるより、心に億される方がいい!

 たくさんの映画を記憶をし、その映画のセリフを頭に記し、その映画に監督が封じ込めた想いを心に億し、自らの体を使って人に伝えたその様が、いつの日か「スクリーンのない映画館」と言われ、多くのファンに「記憶させた」 マルセ太郎さん。マルセさんを地元に呼んで会を開いたときの、楽屋ばなしを思いだす。「あのなぁ、倫ちゃん(僕の別の呼び名)、わし、ここまで生きてきて、一つだけハッキリわかったことは、記憶というのは、まちがいなく、弱者、つまり、社会的に弱い立場、わしみたいな体を患ってる者も含めて、そういう人にあると思うんょ」と。そんなマルセさんだから、いい言葉を遺してくれた。
「記憶は弱者にあり」
今、なぜかふと、マルセさんが、僕の体に記憶させてくれた言葉が体から飛び出してきた。僕にとって、良い時期に、ほんとにありがとうございます、マルセさん・・・。


12月 5日 No.1307

一瞬とは言うものの、人生が一瞬とは、これ如何に!

 一瞬を難読読みすると、ひととき。そのひとときを80年の生涯に置き換えることもできるし、もっと言うなら、地球誕生46億年を一年とすると、人類誕生から2006年までなんか、12月31日PM11時59分51秒からAM00時までの、わずか9秒間のひととき。こう考えると、僕の人生は、ほんの一瞬のそのまた一瞬の一瞬でしかない。でも、僕は、その一瞬の生涯で、子どもたちやいろんな人たちの笑顔の一瞬を、たくさん、心にメモリたいと思う。どんな一瞬だろうと、記憶に残れば、それは一瞬ではなく永遠だと思うから。


12月 4日 No.1306

大臣が、現場も見ずに、あれせぇこれせぇと言うだけでは、教育現場が荒れるのは当然!

 今、どこの教室も「悪い子」というレッテルを、先生に張られないように演じる子どもばかりなった。逆に言うと、良い子のレッテルを張ってもらおうとする、心根のいやらしい子ばかりになった。これは約40年かけて、大人がさせてしまった事実。この心根のいやらしさは、約40年前の東京オリンピックを前後するあたりからの4人家族へのあこがれ、高度成長期による、テレビの普及、車社会、列島改造計画などの社会現象に、国民の中のいろんな親が巻き込まれ、道徳を心根にしていた価値観がさまよってしまい、平成時代の大人社会は、国民を官僚が裏切り、親が我が子を裏切り、学校が生徒を裏切り、会社が社員を裏切り、いろんな場で裏切りが日常的に起こり、テレビで映った張本人が「責任を取るとはこういう姿である」という様を流すならまだしも、官僚が巧みな責任逃れの記者会見をし、それが何度も流れれば、子どもは当然みるので、大人だって言い訳ばかりして責任を取らないじゃないか、大人なんか信じられないや、と思われてもしかたなく、今は子どもからお年寄りまで、人を疑いつづける猜疑心社会が出来上がって当然である。今、大人がつくってしまった猜疑心社会の様をダイレクトに受けてしまっているのが子どもたちで、人に好かれるにはどうすればよいか?、無能と思われないようにするには?、責任を問われないようにするには?などなど、大人のゆがんだ性格の生き写しが、子どもたちの心根を早くもゆがませている。ゆがんだ性格の大臣や大人や親が、ゆがませてしまった子どもたちの心を理解できるはずもない。それなのに、この国の文部科学大臣とやらは、一度も現場が、どう荒れているのか、自分の目で確かめもせず、教育改革とやらを薦めようとしている。僕はいいたい。「おまえが、日本中の教育委員会を一旦、解散させて、そのあと辞めることが、一番、教育改革になるんや」と。


12月 3日 No.1305

しんしんと冷えた朝に、光が昇ってくると、あったかまるなぁ!

 徹夜であちこち走ることが多いが、もともと、夜行性の生き物の僕はへっちゃら。当然、朝が近づいてくると眠気がやってくるのだが、たまに、いろんなことがありすぎると、血がおどっていて、眠れそうにないなぁと思うと、朝日が見えそうな場所に、我が愛車のトゥデイを止める。陽が昇る前の回りの空気はしんしんと冷えている。車内でホット缶コーヒーを飲みながら、たばこに火をつけてまっている。屋根の地平線がとりかこんでいる中、一か所に光が集まりだす。あそこから昇るのかぁなどと思っていると、さらに光が集まる。車から出る。とても寒い。そこを光が昇ってくる。一気に心があったまる。回りもあったまる。朝日って、いろんなものをあっためるために昇るのかもしれない。あったかまると、トゥデイの中は最高の寝床となって、ぐっすり眠ってしまう。ぐぅぅー・・・。


12月 2日 No.1304

絵本をじーっと見つめる目を見てると罪がないなぁと思うし、表情を見てると、おだやかだなぁと思う!

 僕が絵本を読ませていただく会場には、だいたい子どもたちのうしろにお母さんがいる。ところがこの前、伊勢で、子どもたちのうしろに近くの高校3年生三十数名がいた。子どもたちと一緒に絵本の世界の空間を楽しみにきていたらしい(笑)。そんな機会にめぐまれると、この道をとことこ歩んできてよかったなぁと思う。一時間ぐらいの間に絵本数冊を読ませてもらったが、その場にいる子どもたちも、高校生も、僕のダミ声で読む絵本を見つめる目は、ほんとに罪のない世界が広がっていた。そして表情がみな一緒で、その空間が、おだやかさで満たされた。ありがたや、ありがたや。絵本を読ませてもらうと、ほんとにいろいろ教わります。絵本を読んでる空間、絵本を見てる空間、絵本を聴いてる空間には、いじめや自殺のような危険な空間は、いっさい入り込めない。


12月 1日 No.1303

小学校時代のたのしい思い出を、たくさん持たせて、大人にしてあげようょ!

 今の小学生の口ぐせが「つかれた」だ。そんな小学生に、もし、ほんとに、たのしいことをさせ続けさせてあげられる環境を、ととのえてあげたら「つかれた」というだろうか?言うはずがない。むしろ「明日も、ここに集合なぁ」と、ほっといても、たのしいことを自分たちで続けていくだろう。今の小学生は、日本中、僕たち大人が振り回している。つまり、今はどこの地区でも、家でも、学校でも、テレビでも、子どもの安全性を元とした環境をととのえようとしている。それは、いいことだが、ととのえようとする大人に余裕がないため、ぴりぴりしていて、子どもたちに、そんな大人のぴりぴり感が伝わり、たのしい思い出をたくさんつくれるはずの小学校時代に、そわそわした毎日になってしまい、たのしい思い出をつくりそびれてしまっている。このまま、今の小学生が親になれば、そのころの親は、ほとんどが小学校時代のたのしい思い出をもっていない親になる恐れがある。そう、ならないよう、安全性を祈る日々の中に「きょうも、何か一つでいいから、たのしいこと、なんか見つけておいで」などと、一言をそえて「いってらっしゃい」と送り出してあげてほしいと思う。