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| 11月 30日 No.1302 気分が晴れると何もかもが、真新しい! |
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生きていると、時に、ふさぎ込むほどの辛いことや哀しいことが、「えっ!こんなときにっ」って感じで突然やってくる。それが立て続けにやってくると、元気があっという間になくなってしまう。これではだめだと、ハッと気づいて「元気ださなきゃ」って思う。思えば思うほど、元気がうばわれる感じがする。精神的にかなりまいってくる。でも、そんな日々を送っていると何かの力が働くのか、いいこともあるんだねぇ。それが故人の残したものだったりすると、一気に気が晴れる。故人が生きてたときにプレゼントしてくれた中にメッセージがはさんであって、そのメッセージをはさんだままそれがしまってあった。それを今、もう一度読み直すと、まさに天国から本人の声で「元気だせ!」と言ってくれたみたいで、めちゃくちゃうれしくなる。その瞬間、何かスッキリする。「よっしゃあ、がんばるかぁ」って思える。そして回りを見ると、さっきまでの見ていた景色がウソのように真新しく見える。つまり、ハッキリクッキリ見えて、景色の中に光っている部分が多い感じがする。 人の感情は、ほんとに奥がふかいなぁ。 ありがたいなぁ「こんなときだったから」。 感謝。 |
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11月 29日 No.1301 写真一枚には必ず、ものがたりがある。その一枚をテーブルの真中において、家族で語りあかしてほしい! |
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先日、法事のため、うちの親戚を迎えにいったとき「あんたの小さいころの写真が、数珠を探してたら、偶然、見つかったんよ、これー」と言って見せてくれた。写真の中に、おじいちゃん、おやじ、5才の僕が写っていた。5才の僕は紋付きハカマ姿で、たぶん七五三の参りの帰りに、杉本家三代目おじいちゃん、四代目おやじ、五代目僕をならべ、親戚のおばちゃんらが「杉本家のおとこしは、みな、ええ男じゃのぅー」と、はやし立てて撮った写真で、僕だけ、カメラに五代目ぇーとさけびながら手の平を開いて、ポーズをとったのを36年ぶりに鮮明に思いだしてしまった。この写真一枚で、当日の朝から、その夜は何をみんなで食べたかまで、思いださせてもらった。たった一枚の写真から、36年ぶりに5才の僕が甦り、その大切な一日を、おやじの四十九日に、供養がてら、しっかりものがたっていった感じがした。 |
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11月 28日 No.1300 がんばっても、がんばっても、報われない。だから、がんばることを続けられる! |
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がんばることは、自分が「がんばろう」と決める場合と、人に「がんばれ」とか「がんばってるね」と言われたことがうれしくて、より、がんばる場合などいろいろある。次に、どう、がんばるかもいろいろある。僕なら、次々に大事な人が天に昇っちゃうけど、哀しみにくれず、がんばろうとか、今まで命がけでがんばったことなんかなかったけど、本気でがんばってみようとか、がんばらないようにがんばろう(笑)とかある。そのどれもが、がんばったことが報われないから、もう、がんばることをやめた、となってしまっては、それまで、がんばったことが無駄になるので、報われないときほど、報われる報われないにかかわらず、がんばろうと思ってほしいものだ。 |
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11月 27日 No.1299 携帯電話はコミュニケーションにはもってこいのツールなのに、持ってても持っていなくても不安になってどうするのょ! |
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携帯電話を持っている人は、お金を払ってまでコミュニケーションを取ろうとする人。この時代に持っていない人は、なにかしらの意志をもっている人。このどちらも、携帯電話世代には変わりないため、不安にかられる人がでる。前者はある日「あいつ(おまえ)ウザイ、ムシすっから」みたいなメールが、いつ自分に回ってくるかわからない不安や、みんなが話してる、話題を知っておきたい。知らないとすぐ仲間はずれにされる可能性が高くなる、という不安などなど。後者はステキな出会いがあり、そのあと何かで伝えたいことが起きたとき「ああ、携帯電話がこういうときあったらなぁ」と思う。でも、持っていないから、伝えるまでに手紙を書いたり、コンビニまで歩いて行って公衆電話からかけたりしなければならない。もともとそういう輪の外にいても平気だったのに、何かでコミュニケーションを取りたいと思ったとき、取れないことえの不安が発生するなどいろいろあるだろう。どっちにしても、携帯電話は不安をかかえるためのツールではないし、不安になるために、毎月、お金を払うものではないっていいたいわけ。 |
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11月 26日 No.1298 今までやりのこしたものを やるだけでも、人生の転機となる! |
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単調な生活の中にいると、自分の人生はこれでいいんだろうかと思う人もいるだろう。本当は、その人にとって単調な生活がむいているかもしれないのに、人の頭は、ときに自分の「一つの疑問」を何度も反復させ、思いに切り換え固守させる。単純に今までを振り替えれば、複雑なことが好きなら、今までに、何度ももうすでにしてきていることに気がつくのだが、そういうときほど気がつかない。こういうときは、今まで生きてきて何をやりのこしてきたのか思いだせばいい。これが人生回帰。この人生回帰から見つけたものを始めるだけで人生の転機となる。人生回帰から人生転機へのトラベル、そんな人生航路があってもいいよね。 |
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11月 25日 No.1297 ・・・・・・んー、 一言いうのが精一杯。 生きてると、言葉がうかばない日があるんだなぁ |
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灰谷先生、いろんなシーンがうかびます。心からお礼をいわさせてください。 「ありがとうございました。 今度は雲海を泳ぐ天魚の漁でもして楽しんでください。」 今日はこれが精一杯です。ご勘弁ください。 合掌 |
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11月 24日 No.1296 一冊の本から、たくさんの感情を、震わさせられると「いい本だったなぁー」って思う! |
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僕は、あちこちで「いい本を探すにはどうすればいいですか?」と聞かれるようになった。 こたえは 「自分が気になったタイトルの本を読むこと」。 そのとき、あえて望むことがあるとすれば、できれば、途中、つまらなくなっても読みきろうとしてほしい、というぐらいだろう。自分が気になったタイトルを手にしたときから読書はすでに始まっている、と僕はいつも思っている。いい本かどうかは、読むきるまで僕でさえ解らないから。例えば僕が、今までに5万冊ぐらいの気になったタイトルを手にしてきて、それらを読みきったあとに、僕に「いい本だなぁー」って感じさせてもらえた本は、千冊はいかない。でも、次に手にした本を読みきったとき、その千冊が簡単に吹き飛ぶほどの感情を震わされた場合、その一冊がいい本となる。そんなことも、本をとにかく読めば判ってくる。そうすると、どの本もいい本ともいえるし、どの本もつまらないかもしれないとも言える。つまり、自分がいい本と思えたときしか、いい本ではないわけ。みんながいい本って思ったときは、みんなが自分と同じ感情を震わさせられる感情をもっていたにすぎないのだから。僕が小説より、絵本の方がいい本だよって言ったとしても、「絵本?」って脳裏に思う人には、その絵本がいくらいい本だと薦めても、その人はなかなかいい本だとは思わないのさ。だから、いい本を見つける定義はない。でもいい本を見つける方法はあるわけ。それが「ただ、自分が気になったタイトルの本を読むこと」である。 |
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11月 23日 No.1295 この国に生まれ落ちたことが、どれだけ幸せかってことに気がつくだけでも、ずいぶんちがうのになぁ! |
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僕が小学校や中学校に呼ばれ、絵本を読ませてもらって会場を後にするとき、たまにあることを聞かれることがある。そのあることとは、小学生なら「あきちゃんは、何で、大人のくせに、そんなにうれしそうなんですか?」と(笑)。中学生なら「なんでそんなに幸せそうなんですか?あきちゃんていくつ?」と(笑)。そのたびに僕は「そうか、そんなにうれしそうか?それはうしいのう(笑)」とか「そうか、そない見えたらそれは幸せやのう(笑)」とか返事する。そして僕からも、問いかける。小学生なら「君ら、なんで、子どものくせにうれしそうじゃないんや?(笑)」と。中学生なら「君ら、花の中学生やのに、なんでそんなに幸せそうやないんや?君らいくつ?ほんまに中学生か?ほんまは、中年ちゃうんか?(笑)」と。僕は思う。彼らは、世界の国の中で、この日本で生まれ落ちたことが、どれだけ幸せなことかってことに、まず気がついてほしい、と。 |
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11月 22日 No.1294 ジャッジは「ひとつ」を見るか「全体」を見るかのような二者択一で捉えるものじゃないょ。要は常に正確に見ていたか見ていなかったかでしょ! |
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「ボールは一つしかないんだから、そのボールにふれているプレーひとつを見るか、プレー全体を見るかで、ジャッジの見方は変わるよなぁ。それは物ごとのどこを見るかもいっしょだと思うけどなぁ」っていうおっさんの声が、僕の耳に飛び込んできた。声のした方を見ると、子どもたちのサッカーかラグビーの審判をしてきた帰りなのか、3人のおっさんが下は単パンに上は審判服を着ていた。その3人がアイスコーヒーを飲みながら、ジャッジのコツを話し会っていた。プレーひとつを見るか、プレー全体を見るかで、ジャッジの見方が変わるなんて、それでも審判かぁ?と思いながら聞いていた。審判なら、常に、正確に判断できるように、ただ見続けていてほしいものだ。まして、物ごとの見方まで、二者択一の二通りの見方しかない見方にすること自体、おかなしな話しである。物ごとの見方は多種多様にあってもらわないと・・・。 |
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11月 21日 No.1293 待てないのではない。待とうとしていないのである! |
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我が子に対して「うちの子は欲しいものがあると全然、待てないのよね。買うまでいうからねぇ」って思っていたなら、それは、実は親の方が「待つ姿」を見せていないのである。逆に言えば、父親か母親か、それとも両親ともに待てない姿を見せてしまっている場合が多い。親はどこかで「自分は待ってばかり、がまんばかりしている」と思っているのだが、我が子には「お父さん(お母さん)だって、全然、待っていないじゃないか」と思われてしまうことを、気づかずいくつも見せている。このパターンに陥る例をあげるなら、子どもは、何かほしいものがあると、それをほしいという。そのとき「今度の誕生日(クリスマスなど)まで待ちなさい」と言われる。でも、親は何かほしいものがあると、それがいる(必要)からと言う言い方に切り換えて、ほしいものを手に入れている、と思われている場合が多いだろう。よーく、考えれば、まだ使えたものを、ほんのちょっと、調子が悪くなっただけなのに、あたかも、今すぐにでも壊れてしまうように伝え、新しいものをゲットする。子どもからすれば、大人はいいなぁ、なんだかんだ理由をつけて、ニューモデルがでるたびに、次から次へ買い換えられるんだもんって、思っているかも。あんがい、大人(親)の方が待てないのは、ほんとかもしれない。子どもは待とうとするけど、大人は待てない自分をよくしっているから、待とうと、してるように「見せる」からネェー。 |
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11月 20日 No.1292 光ってる子になってほしいと願わなくても、よーく見れば、我が子には光っている部分が必ずある! |
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保育園・幼稚園・小学校で発表会を催すとき、どの家でも我が子に光があたる役をあててほしいと願うことだろう。また、我が子の人生を想うとき、常に光っていてほしいと願う親も決して少なくはないだろう。僕が日本中の子どもに出会って思うのは、みんな、何かしらの光をちゃんと放っている。でも、後ろで見ているその子の親が、どこが光っているのかまったく気がついていない場合が圧倒的に多い。そんな親御さんは、我が子がすぐにどんな人からも気がついてもらえるほど、ひかり輝いている我が子像が強く、家でも外でもひかり輝やかせようとしているふしがある。もし、本当にそんなことを親が望むなら、それは望めば望むほど、その望みを我が子の感受性が察知し、プレッシャーになり、日に日に光が失われていくのである。そんなことを望むなら、今、うちの子はどこが光っているのか、親としてちゃんと知ればいい。知っているようで知らない親が本当に多いが、つまり、光とは我が子がもっている、親が気がついているようで気がついていない「才能」のことだが、その光をちゃんと知って、その光っている才能が、大人になっても消えないように望んであげる方が、子どもばかりか家族まで、ひかり輝かせてもらえることになるだろう。 |
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11月 19日 No.1291 かつては、どの家も「おやじを中心に生活全体」を見ていた。でも、今、どこも「子どもを中心に生活全体」を見るようになった! |
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いじめ・自殺・虐待・親子殺人のニュースが、テレビからとびださない日は、いつくるのだろうと思う日々が続く。そんなことを願いつつも、みな生活していかなければならない。かつては、おやじの稼ぎを元に、大家族があったため、お年寄りの世話、炊事の手伝い、洗濯の分担、兄弟の助け合い、子守、しつけ、母の子育てなどのさまざまな姿を見ることも生活面の大切な一部だったし、晩ご飯を毎日みなで食べるのも、大事なひとときだった。なぜならあの晩ご飯のときに、家族全員が自分の家の家計状態が見てとれたからだ。テーブルの真ん中のメインとなるおかず1品を見れば、子どもなりに「生活の苦しさ」がうかがえた。ときたま、メインが2品あったりすると、おやじが何らかの臨時収入があった日だった(笑)。でも、今は、生活の苦しさの質が違う。家、携帯電話、高級電化製品、車など、親が欲しいものを手に入れたばかりの苦しさ、欲しい物への衝動に負けての、生活の苦しさとなり、光熱費や月謝や給食費などの滞納を繰り返す。そんな生活の中で、我が子への思いだけは働くため、子どもが欲しがる物はできれば買ってあげたい、とか、塾に通わせてあげたい、とか、いびつな子ども中心の生活となっている家が確実に増えてきた。子ども中心の生活が全体をしめだすと、おやじや母親がいくら稼いでも切りがないほど、出費が重なる生活になり、家庭から間違いなく笑顔が消えてしまう。親が欲しいものを、がまんするだけで、ずいぶん家庭環境に工夫や知恵がうまれ、そのとき、我が子をからめれば「生活の苦しさ」が「生活の厳しさ」に変わり、三人家族でも家族一丸型の生活になり、笑顔がたえない家庭になるのになぁ。家の中で苦しさ、厳しさ、恥を親が見せることが、どれだけ我が子に、生活力や自立心を芽生えさせるか、今からの親はもう一度、先人から学び直すことは、金に価すると思う。 |
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11月 18日 No.1290 小さいころに、躾(しつけ)をしっかりすることは、将来、親も我が子にも、プラスに働く! |
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親が幼いころ、躾をしっかりされていると、我が子にも、いろんな躾をしっかりつけてあげられる親になる。でも、今の親御さんの多くが、幼いころに躾の中の大事な数点だけ躾をされていたり、躾をされたのに、自分が親になったとき、我が子には、あのイヤな思いをさせる躾なんか、必要ない、もっと他のことを身につけさせてあげよう、と思ったのかもしれないが、結果、未来において躾をしっかりできなかったばかりに、おじいちゃんやおばあちゃんになっても、親としての苦労がたえることなく、我が子は親になったというのに、孫に、躾の中のたった一つ、人から何かいただいたとき、「お礼を言う」という、躾ひとつできぬ親となる。これでは、未来は非常識が常識になるだろう。そんな社会になっても、今、しっかりした躾を身にまとわせてあげていれば、我が子が成人となったあかつきは、何をしても様になり、一際の動きにムダがなく、礼節に輝くにちがいない。 |
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11月 17日 No.1289 秋の夜長には、テレビを切って、居間のコタツに家族がみんな入って、たった一冊の絵本を読んで、そのあとおおいに語り合う。これ最高! |
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我が家では、毎年、コタツを出した日の晩は、テレビを切って、一冊の絵本を僕が読み、そのあと、その主人公が、もし・・・してたら、とか、俺やったらこうする、うちやったらああすると、まぁ、よくも一冊の絵本でここまで、話しに華が咲くもんだと思うぐらい、語り合う。たいてい、朝までわいわいやっている。お終いに息子が、その一冊の絵本をタイトルも変え、話しの内容も変え、ギャグがときどき織り込まれ、見開きの絵はそのままで、ものがたりを創ってくれる。これがまた、めちゃくちゃ笑わしやがる。タイトル「ぼくにも そのおかねをください」(笑)。このタイトルの元になった絵本作家さんが聞いたら、なんというだろう(笑)。とくに、あるページの「世の中は、お金がすべて。銭がちからになる。とにかく、お金をもってるヤツがなによりつよいのさ」というくだりの変換は、かつての自分を思いだし、身につまさせられる思いと重なり、腹がよじれるほど笑った。みなさんの家でも、ぜひ秋の夜長は、一冊の絵本で楽しんでほしいと思う。そうすると、なぜか、毎年、楽しみになるんだなぁこれが。そして一生、覚えちゃうんだ、こういうことって(^-^) |
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11月 16日 No.1288 寺の本堂で絵本を読ませてもらうと、まるで、お経を読みあげさせていただいたような感覚になっちまった! |
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先日、石川の小松駅のすぐ近くの勝光寺というお寺さんの本堂で、絵本を読ませていただいた。天井までの高さの立派な仏壇の中央から仏さまが、子どもたちを見おろされていた。僕は仏さまを背に、子どもたちに絵本を読ませていただいたのだが、僕の声が本堂に反射して、僕の耳に僕の声が聞こえてくるとき、子どもたちの笑い声やささやきが同時にまじって聞こえてくる感じが、参りでお経をあげる感じにそっくりな感じがした。あんまり気持ちいいもんだから、いつもより、2冊も余分に読んでしまった(笑)。今まで、何回かお寺の本堂で絵本を読ませてもらったが、こんな感覚は初めてだった。仏さまが、何かの力をこんな僕に、がんばれって、かしてくださったのかもしれない。おかげで、子どもたちの満面の笑顔と、寺の名の通りの、瞳に勝ってきままな、むくな光がキラキラとやどっていた。ありがたや、ありがたや。 |
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11月 15日 No.1287 子どもが「ただいまぁ〜」って、帰ってきたときの声の調子で、親はだいたいわからなきゃ! |
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親は、子どもが「ただいまぁ〜」って元気な声で帰ってきたのか、何にも言わずに帰ってきたのか、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で帰ってきたのかで、その日、子どもが順風にすごせたのか、そうじゃなかったのか、子どもの声の調子でだいたい分かるもの。分かりにくくなるのは、学校でイヤなことがあったにもかかわらず、親に心配させたくない、親にさとられないようにしようと、思いやりや知恵がついてくる高学年あたり。声の調子は元気で帰って来てるから、いつも通りだと思っていると大間違い。実はとんでもないほど、我が子が悩んでいたりする。 こんなとき親はどう見抜くかが気になることだろう。そんなことは簡単。元気に帰って来てるだけで、その後を見て、いつもすることを、しているかしていないかを、こっそり見ていればいい。なんかあれば、いつもすることもせず、なーんとなく、さっきの元気よく帰ってきた元気が継続せず、ぼーっとしてるはずだから。それを、親が気づいてあげられたとき、我が子は、本当の意味で「親は、いつも自分のことを、ちゃんと見てくれているんだなぁ」と感じてくれるのさ。 |
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11月 14日 No.1286 わからなきゃ、わからなくていいんだょ。 わからないまま、心の余裕がありさえすれば! |
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わからないことに出会ったとき、どうせ今まで、わからなかったんだから、そのままでも別に問題ないやって思い、わからないまま余裕があれば問題ない。でも、わからないまま一時はすませられたのに、ふと、わからないままにしておいたことへの不安が発生してしまう人がいる。こういった人は、わからないこと以外でも、すべてにおいてあとで不安になり、それまでの余裕がうそのようになくなってしまう。いつも、わからないままにしておけるくせに、いつも不安になる両面を見事に合わせ持つ。人から見れば変わった人に見られてしまうだろう。きのうはごきげん、きょうはムツっとしているなんて。そんな人は、わからないことに出くわしたとき「今の話し、もう少し詳しく教えてょ」って聞くだけで、ずいぶん、のちの不安が薄れるから、やってみてほしい。 けっして、家の中で、我が子にその不安をぶつけないためにも! |
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11月 13日 No.1285 最後が最後じゃない!最期が最期なの! |
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親の中には、子どもが何かに夢中になっているとき、夢中になれることがあるってことは、いいことだから、このままそっとさせておいてあげよう、させてあげたいなぁという気持ちの持ち主と、いつもいつも、そればっかりやってるなんて、このままにさせておいたら、ほんとに、切りがないわ、という気持ちの持ち主など、いろいろいるが、後者の場合「もう、それを最後にしなさい」と言っても、子どもの感性はするどいから、最後じゃないことを感じとる。どういうことかというと、子どもはお母さんの表情や声の質から、まだいけそうだな、とか、お母さんの用事につきあわされるなんて、まっぴらごめんだょ、とか、お母さんが自分ですればいいだろー、とか、ご飯(お風呂)なんかあとでいいょ、とかを察知され、お母さんがいう最後は、ただ「やめさせよう」と、してるだけじゃないかって感じとられているってことなの。つまり、子どもに「最後は最後じゃない」と思われたら、親は最期なわけ。夢中になることの楽しさをしった子は、いうことなんか聞きゃしない(笑)。最期にさせたいなら、子どもがお腹をすかせるまで、何も言わずつき合っていればいい(笑)。この意味、分かるよね。 |
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11月 12日 No.1284 朗天狗も4ちゃいの誕生日を迎え、とうとう年中さんだぜ(笑) |
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僕たち朗天狗を、日本中の各地で招いたくださったみなさんのおかげで、きのう、11月11日で、朗天狗は満4歳を迎えることができました。こんなわがままな僕がいうのも、おこがましいのですが、よくぞこの4年間、朗天狗をめんどうみてくださり、ほんとに、深く、感謝しております。めちゃくちゃありがたいです。11月11日がくるたびに、朝方まで伸ちゃんと、夢を語りに語っていたあのころのことを思いだします。おかげさまで今、朗天狗は、赤天狗の伸ちゃんを先頭に、青天狗のさとかつ、黒天狗のタイチ、そしてわがまま極まりないので末席なのですが、白天狗の僕あきひろと、四天狗がそれぞれ、絵本という葉うちわをもって、各地に翔んでいくようになりました。みな、4ちゃい児にぴったりの動きをさせていただいております。これからの一年、四天狗とも、さらなる精進につぐ精進をする所存ですので、みなさん、どうか変わらぬご愛顧ほど、よろしくお願い申し上げます。 ただ、僕、白天狗だけは、発育不全のため、なかなかじっとすることができないので、どうかみなさん、より、いっそうのあったかさで見守っていただきますよう、いや、もとい、より、いっそうのあったかさで「見逃して」いただきますよう、何とぞ、切に申し上げます(笑)。 赤天狗≡^-^≡・青天狗⊂^o^⊃・黒天狗∈^_^∋・白天狗ε^O^зでした。がははは・・・・☆☆☆☆ |
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11月 11日 No.1283 思いやりを隠し味にしたものを食わせられれば、だれもが笑顔の華を咲かせられる! |
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少し前に、栃木県にいった。そのとき栃木子どもの友社の吉田ちゃんに世話になり、次の日は、ゆずのこ保育園の子どもたちに読あそびさせてもらい、それが終わって、今度は、栃木子ども友社の田代ちゃんに、ある山の中のお店に連れていってもらった。そこへ着くと、高台の上に、水まんじゅう作らせたら、その旨さといったら、こんなうめぇー水まんじゅうはねぇーって思う、息子のお店があり、道をはさんで、その息子の母が、これまた、とんでもなく美味い定食を食わせてくれるお店をかまえていた。その母のお店の定食は、あまりの美味さに、みな顔がほころび、笑顔だらけ。定食を食べたあとに、息子のお店から仕入れた、水まんじゅうを食べた。このとき僕は思った。母は、ちゃんと息子が京都まで修行にいって会得してきた、その水まんじゅうを、自分のお店のデザートとしてちゃんとメニューに活かしているだという優しさを、思いやりを!そして、その水まんじゅうがよりいっそう引き立つ、定食をつくっているんだという巧さがあることを!当然、店を出るときは全員、笑顔で帰る。あの定食の味に息子への思いやりを隠し味として入れてる、母のお店は、いつでも、だれでも、笑顔の華を咲かせられてしまうことだろう。 |
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11月 10日 No.1282 お母さんの「よくやったわねぇ」というセリフが、我が子には、気力が充実する言葉となる! |
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子どもが家に帰ってきて「今日ねぇ、みんなとねぇ、たくさんねぇ、イモをとったんだよーぉ」と言ったとき、「へぇー」とだけ言ったっきり、そんなことはどうでもいいから、早く手をあらいなさいってな感じのお母さんが、すげぇー数いる。そのすげぇー数のお母さんに言います。そんなことが、めちゃくちゃ、うちの子は楽しかったんやろなぁーと思ってあげてほしい、と。「へぇー」と言うだけじゃなくて、そのあとに「よくやったわねぇ」とか「それで、たくさんって、どれぐらいたくさん取ったの?」とか、我が子との話しが広がりそうなことを聞いてあげてほしい。なぜなら、それが我が子の気力を充実させたり、中には、ほめられたような感じをいだいたりするから。そうすると、子どもの方が、お母さんって、こんな体験談を話すことがうれしいんだ、または、喜んで聞いてくれるんだ的(幼い子には、決してこんな表現はできないが心の種としての)、感覚が働くから。ぜひ、やってみてほしい。 |
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11月 9日 No.1281 子どもに話しかけることが大事なことのように言われるけど、本当は、親が聞かなくても、いつも話しかけられているかの方が大事なんだなぁ! |
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幼いお子さんをおもちのお母さんむけ小冊子や雑誌で、お母さんが我が子に話しかけることはとても大事だと警鐘をならす。僕はそんなことは大事だと思わない。小冊子や雑誌を読んで、その中に書かれてあることを、親が我が子にためすことより、話しかけようが話しかけまいが、親は子がいるかぎりずっと親であること、子は親が生きているあいだは、子という事実、この関係を「しっかり親が認識する」ことの方が大事だと思っている。この認識を親がしさえすれば、なにもびくびくすることはない。つまり、認識した親はあるていどの自信がうまれる。わかりやすい例をあげると「わたしの子なんだもん、きっと、ここに書かれているように、わたしから話しかけようとしなくても、あの子の方からなんでも話してくれるわぁ」と思えるはず。こう思えるか思えないかの方がもっと大事なのさ。僕はいつもそう思っている。 |
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11月 8日 No.1280 今まで、なにをくよくよ悩んでいたんだろ?!納得すれば、な〜んてことないことだった! |
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悩みをかかえてしまうと、なーんとなく元気がないことを自分で感じながら、日々を過ごす。ある日、テレビを見ていたり、運転中にラジオを聞いていたり、ふっとしたことで、今の自分の悩みに近い境遇に、話として出遇うときがある。それはすべて、不思議な縁としかいいようがない。ただなんの気もなしに見てたり、聞いていたら、ふっと、「そうそう!そうよね、忘れてた。その気持ち」って、ある気持ちや思いをとりもどすと、妙に納得する。そのとき、今まで悩んでいたことが、なんだったんだろうって思うほど、自分で自分の持っていた過去の気持ちや思いが悩みを解決する「こたえ」となることがある。だから、ただ見たり聞いたりすることも、いいことがあるってこと。 |
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11月 7日 No.1279 「死ぬ気になったらなんでもできる!」って、昔は通じたのになぁ! |
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僕は、その日ドブそうじをしていた。年に1回まわってくる、誰もがいやがる場所を、僕は年2回させてもらうことで、うちの住んでる組の町内会に出席しなくてもいいように免除してもらってる。そんな大事なドブそうじ。僕が一生懸命ドブの底に落ちてる(深さ1m50cmぐらい)、いろんな電気製品、子ども用の三輪車、自転車に、いろんな布が巻きついて、そこに、川にすむ、幼虫の卵やら、虫がいっぱいついているので、奥さん連中はもちろん嫌がるし、男手も嫌がるし、年寄り連中は、最初から「あきに任せとけばええ」って感じやし、台風で流れ止めにひっかかったヤツを一生懸命取ってる横で、近所のガキ4人が、ドブ幅、約2mを飛ぼうとしている。みんな6年生の男の子。4人中、3人が、僕の頭の横を飛び越えた。でも一人の男の子だけが飛ぼうとしていくじがなく、やめてしまう。それを見てて、僕が、「死ぬ気になったら、そんなもん楽勝でできるやろ?」っていうたら、そいつら全員、声をそろえて「あきちゃん、あんなぁ、今は、死ぬ気でものごとしたら、ほんまに死んでしまうから、そうやって言うたら、あかんのやでぇー」と言った。また、一つ、ドブそうじをしながら子どもたちから教わった。今の子どもたちは、やんちゃそうに見える子でも、実は精神(こころ)が弱いでなぁー、確かに、それは言えるかもしれんなぁーって、心底、思った。やれやれ、とんでもない時代やなぁ。 |
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11月 6日 No.1278 早く早くってあせらせてもダメだって。それより、我が子の将来に、身になることを! |
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「早く、早く」、「早くしなさい」、「早くしろぉ〜」など、日本中のどこかで必ず、誰かが、誰かに言っている。子どもが、お母さんに、お母さんが子どもに、先輩が後輩に、上司が部下に、医者が看護婦さんに、嫁さんがだんなに(笑)、といろいろあるが、この中で、お母さんが子どもに、早く早くっていうのだけは、ほとんどの場合、別に急がす必要がない。あとで思えば、早く早くとあせらせる必要がなかったり、ちょっと待てたりするのだ。あせらせられた子どもは、どこにいようが、どこに行こうが、どんなときでも、毎回、毎回、ちょっと、お母さんに、ぐずぐずしてると感じられたら最後、「早く、早く」と言われ、そのたびにけなげにも、早くしようとしてミスやエラーをしてしまう。そして次の言葉「もぅっ、なにしとんのょーっ!だから、いつも、もっとちゃっちゃとしなさいっていうてるやないのー」と言う言葉が待っている。子どものころに、時間がかかってもいいから、正確に確実にできるよろこびを体感させてあげられるのは、親しかいないのになぁ。将来の先輩や上司では、よほどの人格者に出会えないと、待ってくれない。人間の体は、繰り返しでしか、早く、正確で、確実な動きができるようにならない。いきなり、早く正確確実ができるのは、インプットした感情のない機械だけ。つまり、優しい感情をもって、早く、正確で、確実、かつ、手際の良さが安定しつづけるためには、子どものころに、あせらせられることなく、正確、確実にできたことを、子どものころに、お母さんがいっしょに、よろこんでくれたことが、必ず、子どもの将来に身を結ぶということ。早く早くって子どものころに言って、身になるのは、その瞬間のお母さんの心うちだけ。将来の子どもには、なにも身を結ぶことはない。 |
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11月 5日 No.1277 子どもたちは、大人のなにを恐れるって、そりゃーあ、大声でいきなり怒鳴られることでしょ |
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多くの大人は、子どもが悪さをしてた場合、いきなり怒鳴る。少しも、ゆとりなんてものがないわけ。少しでもゆとりがあれば、いきなり怒鳴ることはしない。もっとタチの悪い人は「最近のあまやかされたガキなんか、いきなり怒鳴ろうがシバこうがどうってこたぁーねぇ」って感覚をもっている。子どもは、そんなこととは知らず、やってみたいことをすぐやる時期だから、これをやったらどういう人たちに、どう怒られるかなど、これっぽっちも思わず、やってしまう。そんなときなんだなぁ、いきなり怒鳴る大人がそばいたりするのは。もぅ、これは、ほんとに運が悪いとしか、言いようがない。当然、怒鳴られる。そして、感受性ゆたかな子どもはびっくりする。そのびっくりも、大人がびっくりするのとはわけがちがう。のちに、このびっくりが、もう、あんなびっくりすることは味わいたくないという種になり、のちに怒鳴り声を聞くだけで恐がる感受性として残る。だから、とにかく、子どもたちの悪さを見たとしても、いきなりは、怒鳴らないであげてほしい。「次、やったら、怒鳴るからな」ぐらいで止めて、あげてほしい。そうやって念をおすだけのゆとりが、大人にあってもいいんじゃないかと思う。ほとんどの子どもがわかってくれるから。 |
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11月 4日 No.1276 はじめから、やる気がないと不思議とケガすることが多い! |
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芝生の整った公園で、ある家族のお父さんが5才ぐらいの息子から、鉄棒をやろうってさそわれ、お父さんは「よーし」と乗り気で、さんざんワイワイやって、お母さんの待っているシートに戻ってきて冷たい飲み物を「うめぇー」っていいながら飲んだ。近くにいた別の家族のお母さんが「あんたも、遊だりなょ。鉄棒んとこ空いたし」と言ったが、お父さんは「ゆっくりさせてくれよ。お前が、やったれよ」と言った。それを聞いた一年生ぐらいの娘が「どっちでもいいから、早く早くぅ〜」と行って鉄棒の方まで走っていった。お母さんがすかさず「あんた、いつもカワイイって言うてるんやから、あんたがいったりなよ。うちはいかんでぇー、ぜったい。鉄棒なんか子どものときから大キライやし」といったため、お父さんはやる気なさそうに起き上がり、しぶしぶ鉄棒までいった。それで、娘から「さかあがりできる?」って言われ、お父さんがみぞおちぐらいの高さの鉄棒に手をかけ、足を上向いてあげた瞬間「いてぇー」って叫んだ。なんと、足を振り上げた瞬間、ぎっくり腰。僕はすぐたすけにいってあげて、腰に巻いていたトレーナーをはずし、近くにあった段ボールの箱をつぶして、段ボールをトレーナーの中にはさんで、応急コルセットを作ってあげ、車の助手席に乗せてあげた。お母さんがあわてて娘を乗せ、痛がるお父さんに「ほんとにもぅっ、あんたはなにやらしてもかっこわるぃなぁーいやんなるわぁ、もうっ!」と、罵声をあびせながら病院まで走っていった。僕は心の中で思った。「はじめからやる気がないお父さんに、無理やりさせたのは、あんたでしょ」って。そりゃ、ケガもするし、病院まで送っていくのは当然でしょ。 |
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11月 3日 No.1275 みんな集団になると、異常に強気になる。そんな大人の姿をテレビを通して見た子どもたちは、間違いなしにマネするからタチがわりぃーわなぁ! |
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いじめられたことを警鐘的に書き遺して、自殺したニュースがテレビで流れる。学校がいじめがあったことを、認める認めないところに焦点をあてて流す。そのシーンの多くが、マスコミをバックにつけた父兄が怒鳴りちらす。ほとんどの家の子どもが、このシーンをテレビで見るはず。精神の形成途中にある小学生の子どもたちがこのシーンを見て、担任の先生がバックについたときの教室は、間違いなくおぞましい時間帯となる。つまり、クラスのみんなが、たった一人の子を「あいつが悪い」といい始めれば、そのたった一人の子の声は、クラスみんなに聞かれることなく、間違いなく「殺される」。僕がいいたいのは、せめて、教室や近所や職場であいさつをかわす人たちは、その対象となった子や人のいい分を聞いてあげるべきだ。いいわけぐらい、させてやればいい。どおせ、そのいいわけを聞こうが聞かまいが、集団心理全体の気がすむまで怒鳴りちらすにちがいないのだから。ああー、なんでなのかなぁ、この国の大人は!。もっと、もっとこの国に、「大人の醜いマネを、子どもたちにさせてはならない」と、本気で思ってくれる大人がたくさん増えてほしいなぁ。 僕は一生かかって、そんな集団を、ゲリラ的にバラバラにするしかできないけど・・・。いつの日か、陽のあたる方向へつながる、いい感じの大人が集う国になってほしいなぁ。ほんまに。 |
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11月 2日 No.1274 親は人ごみの中では我が子から一瞬も目を離さないようにしようとする。でも、親というのは、そんな場所でも一瞬のスキを見せることを、子どもたちは知っている! |
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秋は行楽シーズンである。家族で人が多いところに行くこともあるだろう。そんなとき親は、息子や娘から、できるだけ目を離さないよう、気をつけようとする。でも、今まで、そばにいたのに、一瞬、目を離したと思ったら、もう、いないということが起きる。逆に、そんなとき、親が自分たちから目を離した一瞬のスキを見逃さないのが息子や娘(笑)。その場所で一番楽しそうなところをいとも簡単にかぎわけ、すでに汗びっしょりで遊んでいたりなんかする。そんなこととは知らない親は手分けして、息子や娘が、このスペースで行きそうなところを、かたっぱしから捜す。見つけたとき、親は心底「よかった」と思っているのに、「急にいなくなったと思ったら、こんなところで何してんの!ダメでしょ!」っていきなり怒りながら近寄る。こんなことは、でかける前から考えられるんだから、見つけたときは、しばらく、見まもって、息子や娘が親から離れたときの姿をそっと見てみようよ。きっと、怒る気がうせるほどの、それまで親として見たこともないうれしそな顔して遊んでいるはずだから。がはははは。 |
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11月 1日 No.1273 履き物をそろえて、家にあがる。昔から当たり前のことだが、今、それを気持ちいいからって言われることは、親としても気持ちいい! |
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家にあがるときは、履き物をそろえて、息を調えてあがってこぃ。おやじに小学校1年のとき言われた言葉である。ついこの前、法事があって、玄関の履き物をそろえなきゃって思って、そろえにいったら、そろっていたので「だれが、クツそろえてくれたんやぁ?」って聞いたら、娘が「うちぃ〜(私ぃ〜)」と言った。「よぅ、気がついてそろえといてくれたなぁー」って言うたら「やっぱ、おしょうさんに気持ちよく、家にあがってもらって、気持ちよく、お経をあげてってもらいたいし」と言ったので「おまえ、普段、そろえたことないのに、なんでまた、きょうにかぎって」と言ったら、「普段、家におらんおやじに言われたないわぁ。ほんまに。おやじの知らんときに、ちゃんとうちはやってんの。よそのうちに行くときは、絶対やってるし。だって、クツそろっとると気持ちええんやも〜ん」と。娘は、いつ、どこで、だれに、教わったのだろう?不思議やなぁ。でも、おやじは、そろったクツを見て、気持ちよくさせていただきました。ありがとさん。 |
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