ブックドクター・あきひろのイチニチイチゴン
一日一言 〜千夜一燈 ver.〜

諺「長者の万燈より貧者の一燈」

貧しい人のわずかな志は誠意のこもっている点で、たくさんの志よりもまさっている。
形式よりまごごろの尊さをいう。
                       一日一言 〜千夜一燈 ver.〜 

諺「長者の万燈より貧者の一燈」

貧しい人のわずかな志は誠意のこもっている点で、たくさんの志よりもまさっている。
形式よりまごごろの尊さをいう。

10月 31日 No.1272

集中すればするほど、体に`力み'が見てとれる子どもを見てると「ツミがないなぁ」って思う!

 エスプレッソのおいしい店にいった。喫煙席は表にあるカフェテラス。道をはさんだ向こう側に、ガラス張りのピアノ教室が見える。少し、空いた窓から「集中しろぉー」って、男の先生の声がした。小学校3、4年ぐらいの女の子がピアノを弾いている。また「集中しろぉー」と声がする。女の子はそう言われる度に、背中がビクンとして、また、ミスをする。素人の僕の耳には、今のどこを間違えたのか、さっぱりわからないが、僕がわかるのは、力みが見てとれること。それでも、その女の子はそれだけ、そばで怒鳴られているにもかかわらず、一生懸命だということ。やめようとしないこと。むしろ、その先生が言うことを自分も、モノにしたいと思っている節があること。そして、ピアノが大好きなんだろうなぁーって感じること。そのすべてが「ツミないなぁー」って、僕に感じさせてもらい、さらにコーヒーが美味くなったこと(笑)。最後に「今の感じだぁー」と先生に言われたときの、女の子の嬉しそうな表情は、かけねなしに、「ツミのない笑顔」だった。
ファイトー、ピアノガール♪♪〜♪


10月 30日 No.1271

ちょっとした買い物に、親の都合で連れてくんだもん、ちょっとぐらい楽しませてあげようょ!

 この空いた時間に夕飯のおかずを買い物にいこうと思う。そのとき、幼い我が子に、一人で留守番させるかさせないか、親の勇気がためされたり、親自身の、もうボチボチ一度くらい、一人で留守番を体験させた方がいいか、まだ早いかの判断との葛藤があり、結果、勇気がなくて、または判断しきれず、もうっ!て、思いながら連れていくしかないと思う。もしもがあったらいけないと思うからこそ、連れていくしかないのと言う人は、不安との心の戦いへのチャレンジとなるがいずれにせよ、親の都合で買い物や用事に連れていくことになる。そのときだょ、次に「買い物にいくけど、お母さんにつきあう?それとも一人で留守番するぅ?」と聞いて「うん、行くぅ〜」って、我が子に即答してもらえるようにしておくのは、どうすればいいかは、毎回、こっちの都合でつきあわせているんだから、ちょっとだけ、我が子に買い物って楽しいなぁと感じてもらえるような工夫をすればいいわけ。例えば、ソースのカラをとっておいて、「このマークとおなじソースが、このお店のどこかにあるから、宝さがしみたいに見つけて来てー。それで、見つけたら、今度はこのお店のどこかにいるお母さんを探してこのカゴに入れてほしいの。お母さん、ものすごくたすかるけど、やってくれるぅ?」と言えばOK!。親のおもいやりをもってすれば工夫は無限にある(^O^)


10月 29日 No.1270

何が善いか、何が悪いかは、すべて自分の、こり固めてきたものに、よるんじゃないのかなぁ!

 生きるということは、「決めること」でもある。有名な言葉だが、今日までを振り返った場合は「決めたこと」の積み重ねともいえる。何をどう決めてきたかの判断基準の一つが「善きことはOK」、「悪しきことはNO」があげられる。でも、この判断基準の結果の積み重ねは、積み重ねすぎると、「この場合は別」という局面で、「柔軟に決めること」ができないという弱点を見せる。これが、一人一人の善悪の判断基準のズレを生み、「この人ならOKなのに、あの人はNO」、または、「あの人はOKなのに、今度はこの人がNOになった」と、あいまいさを見せる。世界中の戦争も、この判断基準のズレで起こっている。自分が生きていくために、何かの基準をもうけるのは結構だが、こり固まってしまうと、「そのときのベスト」が最優先になるので、できれば、柔軟な決め方で、「そのあとのベスト」が最優先になるように、あとあとまでを考えて決めておかないと、第二次世界大戦のように、そのときのベストで多くの人が犠牲になりかねない。自分の人生もしかりで、何でも、自分の善悪だけで決めると、結果、気がついたら自分が一番、損をすることになる。


10月 28日 No.1269

「もう、つかれた、もぅ、つかれた」を連発する4歳の男の子には、これからどんな将来が待っているのかなぁ。

 オープンテラスでコーヒーを飲んでいたら、一人の女性が、毛並みのいいラブラドール犬の散歩をしながら横を通りかけた。そのとき、その女性に向かって一人の男の子がこう言った。「ママー、もう、つかれたー」と。すかさず、そのママが「ついこの前、4歳の誕生日に、がんばるって約束したでしょう」「でも、つかれたもん。もぅ、つかれたぁー」と連発しながら通りすぎていった。僕は4歳では、まだ、つかれたという実感はないと思っている。ただ、「つかれた」というセリフをはくスチュエーションもタイミングも間違っていない個所が多いので、まわりの大人は、本当にその子がつかれているんなら、少し休ませてあげる世話をやかざる状態にさせられてしまうんだろうなぁーって思う。あの子が実感として、つかれていないときと、本当につかれたときと、つかれるということがどういうことなのか、わかったとき、どんな大人になっているのかなぁ。4歳にして、つかれを感じている場合、あの子に、80歳の誕生日がおとずれるのかなぁ。ママに、がんばるって約束してるらしいから、つかれないようにがんばってほしいものだ(笑)


10月 27日 No.1268

大人が遠くまで旅行にきたような、あの開放的な気分を、子どもは、近くの山や川や公園で毎日味わうことができるほど感受性ゆたか!

 東京の神田川のほとり沿いに小さな公園があって、そこはこの禁煙社会ご時世でありがたいことに灰皿がある公園なので、たばこを吸いながら本が読める。本を読んでいたら、小学校4年生ぐらいの子どもらが「この川は、実は、ガンジス川まで続いているんだぜー」「ば〜か、ナイル川に決まってるじゃん」とか、知ってる限りの外国の川の名前をあげながら通りすぎていった。ふと、ここが砂やまがある公園なら、知ってる限りの外国の山の名前をあげたり、ちょっとした池なら、海にみたてて、話するんだろうなぁーって思った。その感受性のゆたかさに、なんともいえない、ほのぼの感を味わわせてもらった。やっぱガキにはかなわねぇーなぁ。僕なんか、たばこを、すえる公園ってことで、そこにきてるもんだから、なんか恥ずかしくって。


10月 26日 No.1267

今、子どもが家でしか、汗かいて ちょけれないんだから、そんなに怒らないでょ!

             注)ちょける・・・おちょける。ふざける。おどける。などの方言。

 昔は、子どもが家で ちょけて おいかけっこなんか少しでもしようものなら「外へ いって 遊んでこい」って言われた。でも、今は、外で遊ばすには、事故にあわないだろうか、変な人に声をかけられ誘拐されないだろうかなどの、心配ごとと、親は、大なり小なり内面で戦わなければならない。そんな時代でも、親や親戚の都合で日曜日や祝日に集まらなければならない用事がある。親たちは、親同士で話こむ。そのときを逃さず、すかさず親戚の子どもたちが家の中で ちょける。このとき、誰かが泣くまでちょける(笑)。そして親の誰かが「家の中で ちょけるからやぁー。外 行って 遊んでこぃ!」って言う。でも、叱られるまでの あの ケラケラ笑ってしあわせそうな顔は、そうそう見れるものじゃない。だから、これからは、「ちょけるのは、ええけど、誰も泣かんように、ものがこわれやんように、楽しく ちょけとってくれぇー。おいちゃん、おまんらのその楽しそうな顔 好っきゃ(笑)」ぐらい、言ってやると、これが不思議に、誰も泣くことなく、ものをこわしたり、こぼしたり、しないような遊びをあみだし、どの子も、ほっぺたに、汗で髪の毛がくっつくほど、いい顔で遊んでいる。たったこんなことで、外より安心だし、あのいい顔が見れていいんじゃないかなぁ こんな感じで。


10月 25日 No.1266

みんなから、何を言われるかより、みんなに何を言うかじゃないのかなぁ!

 この国は、いいかげんなことをしていると、人から何を言われるかわかりゃしないって観が、行動を起こすときに、感情に強く働きかける。だからこそ、何も言われないよう、普段から、まじめに生きなさい的、要素が精神性の在り方としてしめされる。それを、実践している社会人がいったいどれぐらい、いるのだろうって、僕なんかは、すぐ思う。まじめに生きることが、面白い人はその生き方をしてください。僕は、適当なとき、適当な分だけ、適当なまじめをわざわざしたり、ここ一番だけまじめにするほうが性に合っているので、全部、まじめには生きない。それより、何かを伝えようとしたり、何かを表現したり、みんなに何を言おうかの方が好きなので、当然、何を言われるかわかりゃしないが、別にかまわない。何を言われるかわかりゃしないってことで、まじめに生きたのに、自分のまわりで、何も起こらない日々を送るなんて、僕はたいくつしてしまうし、とてもつまらないし、おりこうちゃんぽく僕は感じてしまうので、そうなるぐらいなら、何かを言う側にまわって、波風が立ったり、賛否両論になったり、悪口言われることの方が、そこらへんの看板の、キャッチコピーで、何を言いたいのか、よくわからない文章より、わかりやすくて面白いと思う。だって、みんなに動きがある方が、面白いんだもん。


10月 24日 No.1265

受験生で笑顔が最高なら、それだけで合格って感じ!

 ついこの前、東京のある中学校で3年生のみ、つまり受験生のみに、僕が講演をさせてもらった。そのとき、今も、マブタの裏に焼き付いているんだけど、男子生徒も女子生徒も笑顔が最高だった。普通、受験まであと半年っていったら「俺(わたし)、一年後、どんな高校生活を送っているんだろう」、「希望高に行けてるかなぁ、行けてたらいいなぁ、希望高へ行くためには、今、がんはらなきゃいけないってぇーのは、良くわかるんだけど、なんか、受験勉強ができねぇんだよなぁ」って、空気につつまれて、なんとなく暗い感じがしてても当然なのに、僕を喜ばすほどの最高の笑顔。元気を少しでもつけてあげたいなぁーと思って乗り込んだのに、僕の方が元気にさせていただいた。僕が合格、不合格を判断できる立場にあれば、僕は迷わず、「君たちの、その笑顔はまちがいなく、合格に価する」って言うと思う。これほんとに!ありがとう、最高の笑顔をプレゼントしてくれて。さぁーて、気分がいいので、ぷらぷらっとしてこよっと・・・(^O^)(笑)。


10月 23日 No.1264

この時期、暑くもなく寒くもなく、いい秋晴れだよなぁ。こんな日はまちがいなく絵本日よりさぁ!

 今日の都内は最高の秋晴れ。暑くもなく寒くもなく、いつまでも寝ていようと思えば、寝ていられそうな気がするし、体をちょっと動かそうかぁと思ったなら、すぐにでも動かせるような気がするし、何をやるにしても、気持ち良くできそうな日だった。そんな日はやっぱり、絵本もって出かけてしまうんだよねぇ。近くの芝公園に、今や「あっ、絵本のおじさん」と学校帰りの小学生に言われるぐらいになった。ふふふふ。そんなときは、気分がいいから、一人で誰が聞いてくれてるわけでもないのに、歌手をめざしている人が公園のすみで歌の練習をしてるように、僕の場合、隅じゃなく、一番、その公園のベンチの上に立って、一人で声を張り上げて絵本を一冊読んでいる。まるで、バツゲームでもやらされているように。こんな秋晴れの絵本日よりに、こんなバツをうけるなら、すすんでうけるけどなぁ(笑)。


10月 22日 No.1263

一声で50名が集まる会は、ほんとにすげぇーハッピィータイムの連続になる!

 せんだって、ある日本一の絵本出版をやってのけている一人の絵本作家と野球をした。「今度、野球やんべ」と言って、当日、な、なんと50名がぞくぞくと集まって来た。来た人、全員が打席に立つには、の配慮から、アウトカウント関係なしで、30分攻撃したら、30分守りと言う、変則ルールだが、心にくいばかりの気遣いのルールで、女性人もおおいに楽しめる野球ができた。普通なら、女性を応援役に徹しさせてもおかしくないところだが、野球のルールを知らなくても、来てくれた人、すべてに敬意を表した野球は、攻撃も守りの時間もとても楽しく、それでいて、ちゃんと勝負の厳しさを味わえる一日となった。あんなアイディアをすっと出せるのは、あれだけの子どもに喜ばれ続ける絵本作家ならではのアイディアだろう。その絵本作家に心から感謝させていただきます。ありがとうございました。そして、つめかけてくれたみんなぁ、ほんとうにおつかれさまでした。また、一年後まで、その絵本作家の健康と、みなさんの健康を何より願う僕でした。
結果報告
3種目決戦
2種目制した方が勝利チーム。
1種目 変則30分交代野球。タローズの勝利
2種目 キックベースボール。アキヒローズの勝利。
3種目 庭球野球12人制特別ルール。アキヒローズの勝利
よって今年も2勝1敗でアキヒローズの勝ち。ナイスゲームばかりでした。 以上(^O^)/
10月 21日 No.1262

正確に言えば、誰ひとり悔いが残らない人生はない。だが、悔いがたくさんあったにせよ「いい人生だった」と言える人生は在ると思う!

 人生って、悔いの連続のようなもの。こうすれば良かった、ああすれば良かったなど、一つの結果が出ると、必ず、悔いる個所がいくつかでる。その連続の日々を重ね、最期をむかえる。
 このとき、自分の人生を振り返り、悔いた個所が多々あるにせよ、まぁ、いくつか楽しいこともあったし、帳消しだなって思えた人は「我が人生、悔いなし」とか「いい人生だった」とか言えるんだろう。僕なら「悔いがいっぱい残るけど、それは、また、今度、生まれ変わることができたなら、させてもらうょ。とりあえず、今回の人生は、OKってことで。ほんじゃあね」っていいそうな気がする。何か、悔いがたくさんあるほうが人間らしく感じるなぁ。その悔いがたくさんあるほうが、また、人間として生まれやすくなるような気がする。まぁ、でも、僕の場合、次は良くて「蝉」かも(笑)。


10月 20日 No.1261

今、子どもに、好きなことをしていいよって言っても「ない」って言うんだよねぇ!

 今、僕があちこちの小学生に「好きなことしていいよ」って言うと「な〜い」「ない」「好きなことって〜?」「何をぉ〜したらいいのぉ〜?」など、とにかく「ええっ、ほんとぉ?(^^)ほんとに、好きなことしていいのぉ(^O^)?」って目を輝かせながら、わくわくして確認してくる子がほんとうに少なくなった。つまり、どの地区へいこうと、好きなことをふだんさせてもらってないことを伺わす。小学生時代に好きなことをさせなくても、いずれその子が大人になれば、そのうち好きなことを見つけられるだろう的、安易さも感じられる。人生で、自分がほんとうに好きなことを見つけることは、とても難しいことの一つなのになぁ。大人になってもなかなか見つけられないと思うけどなぁ・・・。でも、小学生のときに好きなことをさんざんさせてもらった子は、大人になってちゃんと好きなことをやっぱりちゃんと見つけ、運がいいとその好きなことを一生の仕事にできるんだよねぇ。


10月 19日 No.1260

立ったまま「飛び出すと、あぶないっていってるでしょ」って言ってるから、ほんとに子どもがあぶないんでしょ!

 車の行き来が激しい道路わきで、若いお母さん同士が、歩道で手をたたきながら、バカうけして笑っている。わきで、お互いの子どもが、チョンとつついては逃げ、逃げてはつつきで、道路に片方の2年生ぐらいの男の子がはみ出した時、プァアーンとものすごいタクシーのクラクションがなった。タクシーの運転手は、通りすぎるとき、そのお母さんの方をにらみながら見ていった。その目は「ぺちゃくちゃしゃべってないで、自分の子どもが道路にはみ出してひかれないように、ちゃんと見とけ!」って言ってる目だった。普通なら、会話を止めて、我が子が道路に飛び出した瞬間、子どもを歩道につれもどし「道路に飛び出しちゃダメってあれほど言ってるでしょ。ひかれたらどうすんの?何にもできなくなってしまうのよ。だから何があってもこの歩道から、はみ出すことだけは、絶対にやめて」って、命にかかわることだから、真剣に叱ってもいいようなものだが、最近のお母さんは、お喋り最優先で、我が子が道路に飛び出しても「ダメっていってるでしょ」って言うだけで、動きもしない。別に会話を止めるわけでもなく、立ったまま。自分の子どもが、どれほどあぶない状況なのか考えもせず、喋りたくっている。ちょっとぐらい体を動かそうとしてほしいものだ。そうしないと、我が子のあぶない状況は、一向に変らないってことになる。体張ってまずあぶないところから安全地帯まで連れもどし、それからキツく叱るのが、親の基本でしょ。たのむよ、我が子があぶないときぐらい、会話を止めてよ。あの飛び出し方は、たまたま通りがかった僕も、ひやひやするよ、まったく。


10月 18日 No.1259

「親が元気なあいだに、私たち親は子どもたちに何を伝えたらいいのでしょう?」って、人に聞きてどうすんのょ

 家の中で、親が我が子に何を伝えたらいいのか、尋ねるってことは、家の中で、ありのままに感じたこと、話したいこと、喋りたいこと、伝えたいことなど安心して自由に話せない家なのかなぁーって思ってしまう。本来、親は何を言おうが伝わるし、伝えたいことが血がつながってても上の子には伝わったのに、下の子には伝わらなかったり、上の子下の子関係なしに、別に伝えようとしていなかったことだったのに、妙にそこだけが伝わっていたり、親から子に、伝わり方は、その家その家でみな違うのも当然のことである。でもどうしても、何を親が伝えたらいいか、知りたいと言われる親のみなさんに、どうしてもと言われたなら、僕は迷わず、おじいちゃん、おばちゃんの若いころの話しや、はたまたお父さん、お母さんの小学校時代の話しや、結婚したいきさつ、そして、その一族の夢・希望・ロマンなど話してあげてほしいって言うね。


10月 17日 No.1258

丁寧な受け答えができる人は、その場の空気を和ませちゃうんだなぁ!

 病院の受付で、年輩のおじさんが「おい、この診察券、どこへ入れたらええんや。わからへんやないか」と、いきなり受付の女性に言った。そしたらその女性がすっと立って、おじさんが威嚇するように揺らしている診察券を見て「こちらの診察券ですね。申し訳ございませんが、こちらに来てください。」と笑顔で言った。その女性のステキな笑顔はステキな笑顔なんだけど、どこか、なぁーんてさわやかな笑顔なんだろうと感じさえる雰囲気もある笑顔で、数メートル離れたBOXの前に立ち止まると、スーっと、きれいな手をかざし「こちらにその診察券を、入れてください。外来のお客様を少しでも早く受付させていただきたいなぁと、思うと、受付カウンターで、ここにしか診察BOXをおくところがなくて。もし、今度来ていただいたとき、わからなければ、今日みたいにお声をかけてくださいネ((^-^)ニコ)。」と言った。その場の受付ロビーにいた、すべての人たちの心の中は「よくもまぁ、あんな、らんぼうなもの言いの人相手にあれだけ、丁寧に、そしてさわやかに、対応できるものだなぁ」と思ったにちがいない。でも、その最後にニコって笑顔のおまけつきが、そのおじさんの心も和ませ、その場にいた人たちの心も和ませた。僕も、あんな丁寧な受け答えができたらなぁ。


10月 16日 No.1257

我が子が自分のことを「俺はダメなヤツ」って言ったとき、親は心をこめて言ってあげよう。「おまえはダメな子じゃない」と!

 自分のことをダメって、言わすために、親は命を授けたわけじゃない。親は、自分の子には、結局、いろんな希望をもって、一生懸命生きていってもらえたら、それでいいと思っていると思う。自分も親になったら、我が子にそう思うでしょ。その我が子に、昔の親が「おまえは何をやらしてもダメなヤツだねぇー」っていうのと、今の親が我が子に言うのとでは、生活状況や社会状況があまりにも違うと思う。今はそれを言うと、親が親らしい背中姿を見せていないから、逆に見せていても、子どもの方が、ごちゃごちゃ何かにつけてうるさい自分の親の背中姿を見るよりも、よそのおじちゃん、おばちゃんの優しいところだけを見て、自分の親とくらべるようになってしまった。そうしたのは、僕らの世代の親たちだろう。だからこそ、僕らの世代の親は、ことあるごとに、言っておいてあげてほしい。「おまえが自分自身でダメと思ってしまうために、お父さんとお母さんは、おまえを生んだわけじゃない。ダメだと思わせてしまう子育てしかできなかった、親の俺たちの方がダメなのであって、おまえは、決してダメな子じゃない。おまえには、俺ら親以上の人生を歩んでほしいといつも願っている。おまえは、お父さんとお母さんを親にしてくれたことでちゃんと役に立ってる。そんな大切な子だ。だから、おまえにもう一度いう。おまえは決してダメな子じゃない」と・・・。


10月 15日 No.1256

くりかえし、くりかえし、あきらめないことをつづけると、必ずイイことがある!

 先日、中日ドラゴンズが優勝をきめたとき、お立ち台の上で落合監督が急に涙ぐむシーンをみた。その涙ぐんだまま心のこもった、ありがとうと言うセリフと、そのときの容姿から、ほんとに人には言えない辛いことを、心でかかえていたんだろうなぁと思った。でも、それが今、目の前の優秀な選手たちやファンのおかげで、優勝まで導いてもらえた。だからそれまでの辛いことや悩みを、優勝したことで、一気に解消された安堵感みたいなものが、目を潤ませたのだろう。僕はそれをみたとき、もらいなきしそうになった。中日ドラゴンズの中では一番落合監督が好きだからだ。なんとなく、秋田育ちの人の良さと、秋田育ちのど根性をかねそなえた人物のように思う。優勝、おめでとうございます。来年はそうはいきませんよ。落合さん。虎は強いよぉー。


10月 14日 No.1255

あれだけ食べたいと思っていたものを、今、お腹一杯食べたら、その気持ちが、どっかにいっちゃった!

 そのデパートの地下で、行列の出来る限定売り切れごめんのケーキを、前からたった一度でいいから、お腹一杯食べられたらなぁーと思っていたら、そのチャンスが巡ってきて、今、目の前にそのケーキが50コもある。それを見ただけで、かなり精神的には満足。そして、とうとう一つ目のケーキに手をのばし、口にほうばる。うまいぃ〜ぃ〜。次から次へ口の中に運び、お腹を満たしていく。ついに手がとまり、一口、紅茶を飲む、これがまたおいしい、そして、また数個食べる。もう、気分は満腹満足満喫の三連発。そして、紅茶をたしなみながら、残ったケーキを目で数える。26コぐらい残っている。残りはあした食べようと思い、丁寧に冷蔵庫にしまう。次の日、前日とおなじように食べようとするのに4コ食べて前日とおなじ、もう満腹もう満足もう満喫の気分。さらに次の日、一つ食べてすでに満腹すでに満足すでに満喫の気分。残りは、あれだけ食べたいと思った気持ちとともに、生ゴミとなって消える。すべて、「人生は満たることなかれ」に、通ずる云われがここにある。


10月 13日 No.1254

哀しいとき、哀しい気持ちを、哀しいいまま、歌がうたえるって、よう伝わるから、いいよねぇ。うらやましいなぁ!

一人の子どもが、家の前を、運動会の帰りに、歌をうたって、僕の家の前の道を歩いてきた。なんとなく、哀しいメロディーに、哀しいトーンの声で、哀しい歌詞を歌いながらとぼとぼ歩いてきた。ちょうど車を止めたばかりで車の中の荷物をとりだそうとしてたから、その歌声を聞いて、どんな子が歌っているのかなぁーって思って、ひょいとその子をみたら、しょぼんとしてたから「おーい、元気ないなぁ」って声をかけたら、一瞬、こっちを見て、またその哀しそうな歌をうたいつづけた。そこで僕が「せっかく、歌が上手いんやから、もうちょっと、明るい歌、うたえや」って言ったら、「だって、僕たちのクラスは最下位で負けたんやもん。だから、これでええの」って言うてた。それを聞いて納得した。よう考えたら哀しいとき、哀しいうたがうたえるってええなぁーって、思った。僕がもし歌がうたえたら、たぶん哀しさを吹き飛ばそうって無理やり、明るい歌をうたおうとしてしまうやろなぁ。それでは、伝わらんかも。あの子、よっぽど勝ちたかったんやろなぁーって、ちゃんと伝わった。


10月 12日 No.1253

涙が止まらない。止まらなかった涙が停まる。そうすると今度は泪が溢れてきて、こぼれるんだなぁ。泪って!

人は泣く。人が啼く。人を嘆く。
悲しくないのに泣く。哀しくないのに泣く。
たまらず啼く。たまらないから啼く。
思わず嘆く。想わず嘆く。
涙がながれ、声が枯れる。泪がながれ、声が嗄れる。
ただ泣く。ただ嘆く。
そして嘆く。そして泣く。
どうしていいか分からず泣く。どうしていいか分からず泣く。どうしていいか解らず泣く。
そして、ちょっとだけわかった。
声が枯れることはあっても、涙は枯れない。くるおしさに嗄れることがあっても、泪は決して嗄れない と・・・・・・。


10月 11日 No.1252

あれもこれも知りたいことだらけ。でも、あせることないょ。なぜなら、たった一つの体験から知るを、知りつくしていくだけで、何もかも知っていけるから!

 あれもこれも知りたいと思ってもなかなか、知ることはできない。ここで言う知るとは、情報として知ることではなくて、体験として知ること。例えば、あそこに出来たうどん屋さん、メンが細いくせに腰があってとってもおいしいって評判よ、という情報を友達から聞くとする。でも、その時点では、自分はその情報を知っただけ。でも、本当にそこのうどん屋の評判のうどんを食べた人は、メンの細さが何ミリぐらいで、味は関西風で腰がどうかたくて、口の中でどういう旨味なのかを体験して知っている情報をもっているわけ。この体験をして知っている情報の人はどんな角度を問われても、たった一つの体験から知っている情報をもとに説得力あるいろんなこたえができるわけ。そういう「知る」をしりつくしていきたいものだ。これからも・・・。


10月 10日 No.1251

人はみんなカッコつけるものなのさ。でも人によっては、その人自身はカッコつけてるつもりも自覚もないのに「カッコつけてる」って決めつけるんだよね。でも、そんな人はかまわないのが一番。だってちゃんとバチがあたるから!

 まぁ、子ども社会まで決めつけから始まるいじめがあちこちで大なり小なり起こっている。いや、昔から、いじめっこの決めつけが原因で、いじめがずーとあるのかもしれない。決めつけるクセのあるヤツってのは、どこにでもわいて出て来る。だから、そういうヤツに決めつけられた人は、よほど自分がしっかりしているか、天然か(笑)、天性のおおらかさか、おっとりさか、純な人の良さをもっていないと、耐え兼ねてしまうだろう。耐え兼ねてしまう人たちは悩んだり辛い思いをすると思う。なまはんかに勝ち気だと復讐心が芽生え血みどろになりかねない。でも、そんなヤツは構わないようにするの。ほっとくのや、相手にしないようにしようとするのとはちょっと違って、つまり、相手が構ってきたとき、構えるから、相手をの決めつけやいじめを継続させてしまう一つの要因をつくってしまいかねないので、こっちは何度決めつけられようが構えをとらないわけ。剣道の試合などでは互いに構えるが、決めつけくるヤツには武道ではないから構えないにする感じ。イメージ的に「やる気ねぇな、コイツ」みたいに思わす感じがいいと思う。そうやって構わないでおくと、バチがあたるから。


10月 9日 No.1250

おじいちゃんやおばあちゃんが寂しそうにしてるのは、あとから生まれてきた僕らには、決してはかり知ることのできない何かを、思いだしているんだろうなぁって、想ってあげてほしい!

 人は必ず死ぬ前に老いる。老いるといっても、若くして心が老いているものもいれば、若くして体が老いているのもいる。つまり、20代で失敗してもまだまだ取り返しのつくことを「もうダメだぁー」と思い続けてしまい心が老いてゆく場合や、若いのに、体が疲れるから「行かない」「やらない」「動かない」の3連発を繰り返し、歯はガタガタ、腰はフラフラ、膝はガクガクなど、体を使わなかったために若いと言えども体は老いている場合などである。ここで言うおじいちゃんやおばあちゃんは、生きることに背を向けることなく、辛いことや悩みをかかえながら、体も酷使するほど動かしてきて、健全に生きてきたのに老いてしまって、ふと寂しそうにしているおじいちゃんやおばあちゃんのことをいっているのだが、そんな生き方をしてきたお年寄りの心内や心中を察することなど、気力・体力ともにまたまだムダに残っている大人には、何を思っているかなど、気力・体力が逆にじゃまして、到底わかるはずもないのである。だから、ふと寂しいそうにしているおじいちゃんやおばあちゃんがいても、何でもいいから話してあげなきゃって声をかけるのではなく、た だただ、敬意をもって、何かすごい思いにふけっているんだろうなって、想いながら見守ってあげることもたまにはしてあげてほしいものだ。


10月 8日 No.1249

享年六十五歳 中秋の名月の中に、おやじの笑顔がみえた

 一昨日の昼、僕のおやじが六十五年間の人生をかけて逝った。
 よくぞ、こんな僕みたいな極つぶしのおやじをしてくれました。心から感謝してます。

 おやじと、最期に、遇えたのは、おじいちゃんが逢いにいったれって、俺の心の耳にいうてくれたからやと思う。何か体のムシが報らせたんやなぁ。あっというまに、夜中になり、ふと外に出たら、雲ひとつない中秋の名月。すげぇー十五夜おっ月さん。そのおっ月さんの中に、おやじの顔がみえた。その顔が笑ってたんよ。俺の本厄の年に、厄をあの世にもってってくれるなんざ、あのとき「わしが死ぬときは、一族の魔は全部もってったる」って言うてた通りやんけ。
 おやじ、俺、まだまだ、がんばるでぇー。おやじみたいに、パタンと電池が切れるまで、がんばるでぇ。おやじは、そっちでゆっくり、おじいちゃんと語りあえや。幸せな人生やったと・・・。俺も「笑う門には福来る」をブックドクター行で、朗天狗の伸ちゃんやさとかつやタイチと、たっぷり実践したら、すぐそっちに逝くから、それまで、とりあえずゆっくりせぇーや。なぁーおやじ。

 おやじ、ほんまに、俺に命授けてくれて、ありがとな。感謝(^-')



10月 7日 No.1248

若いうちはいいけど、あんまり無理すると、年とってからガタがくるよって、言ってもらえるぐらい動いていると、いいことが多いんだよね!

 上のセリフを日本中の人たちに言われるようになった。昔は親⇒親戚のおじちゃんおばちゃん⇒アルバイト先の店長⇒名古屋地区で出会った人⇒関西地区で出会った人⇒朗天狗で今までに行った、北から南の方々と、僕の場合、年をとるごとに、そうやって、言ってもらえる人が増えた。みんなに言われるぐらい動きに動いてきて良かったなぁと思う。親からもらった体をちゃんとあますとこなく動かして生きてこれたこと、これからも、みんなが言うガタがくるまで精一杯つかわせていただこうと思っている。今までつかわせてもらった僕の体を僕が見るとかなりシンプルにできている昔の車のように感じる。壊れても壊れてもエンジンルームに手が入り自分で直せる(治せる)感じ。今みたいな精密なコンピューターで何もかも制御されたエンジンルームなら特殊工具がないとディーラーでも直せ(治せ)ないから。起きる⇒動く⇒食う⇒寝る、そしてまた起きる。おやじ、おかん、この体を授けてくれてありがとう。おかげで日本中軽自動車でみんなに逢いにいけるよ。感謝o(^-^)o


10月 6日 No.1247

子どものことを気にしすぎて、我が子に嫌われてしまう親、多いんだよなぁ!

 人の親子関係だと、キョリ間がいいのか、けっこういいこと言うお母さんが、自分のとこの親子関係だと、我が子にめちゃくちゃ嫌われている。なぜ、嫌われているか僕が分かるかと言うと、絵本を読ませてもらったあと、そういう子が近寄って来て、僕に自分のお母さんのイヤなところをしゃべりたくるから。けっこう面白い話が多いが、その子にとっては切実な問題だということは、顔のひっしさから感じとれる。こういう子のお母さんは、我が子のあちこちを気にしすぎていることが、その子の話から分かる。例えば「僕が学校から帰ってくると、すぐ、なくなったものがないか確認するんだよ。僕、そんなに毎日、なくさないのに」とか。そんなチェックを毎日、お母さんからされたら、そりゃイヤになるわなぁ。世のお母さん方、くれぐれも「我が子のそぶりを、気にかけること」と「我が子が、ちゃんとやっているか気にすること」とを混同しないように。後者の方は気にしてあげて、気にしすぎるようになって、我が子に嫌われる可能性 大ですから・・・。


10月 5日 No.1246

子どもはお気に入りの絵本だと、絵も読み手の声でさえ、編集しながら、一生、心に残してくれるのかもしれない!

 北海道で、一人の女の子に出会った。瞳のむちゃくちゃきれいな女の子。その子が、お気に入りの絵本は、何と風濤社から出ている「地獄」と言う絵本。その絵本の最後に出てくるお地蔵さまの顔が好きでよく、夢に出てくるらしい。その地獄を去年、会ったとき、僕がチラッと読んだらしく今年も「もう一度読んで。一回だけでいいから。夢に出てくるお地蔵さまの声が、あきちゃんの声なんだもん。だから、読んで」と。わかったと言って読んであげたら、なぜか目にいっぱい涙をためながら「ありが と ぅ。わたしね、この本一生だいじにできそう」って言った。その子に、僕は言った。「あのね、大事にするのはいいけど、ほんとのお地蔵さまの声は、そこに書いてあるとおり、すきとおる声やからね。俺みたいなガラガラ声じゃないから、そこだけ夢の中でも音声を編集しといて」と。そしたら「あのね、夢の中のあきちゃんの声、けっこうすきとおってるから、大丈夫(^-^)」と言ってくれた。うれしいことを言ってくれたけど、でもなぁ一生となると、なんか複雑やなぁ。俺の声やもんなぁ・・・んー!?


10月 4日 No.1245

この幸せな瞬間に死にたいと思っても、こんな辛い思いをするなら、今、死んだほうがましって思っても、そんなときは、死なしてもらえないのさ!

 生きることの厳しさの一つの摂理がある。生まれたら必ず、死ぬ。いつ死ぬかは本人もわからない。逆にいつまで生きるのかわからない。だが死ぬのはわからなけど、どんな生き方をするかは、自分が決めればわかりはじめる。わかりはじめて、生きると、スランプが訪れたり、辛いことに出会ったり、悩みにおちいったりする。もう死んでしまいたいと思う。でも、死ねない。死ねずに生きているとふとしたことから、スランプをぬけ、辛さが晴れ、悩みをかかえていたのがうそのようにスッキリする。ああ〜なんて幸せな瞬間をむかえられたんだろうと思う。ついこの前、死たいと思って死ねかったことがこんな幸せな日に出会わせてくれたのかなぁ。それだったら、今、この瞬間、死ねたらいいなぁ。でも死ねない。それが生というもの。生きるっていいね。


10月 3日 No.1244

人の出会いがうれしい人は、人が人を呼ぶ力が働くのかもしれない!

 人と出会うことがうれしい人、人と人が出会うことがうれしい人、出会いそのものがうれしい人、まぁそんな人たちは、人に会うことが好きなんだと思う。人によっては、人に会わなければならないと思うだけで数日前から、もう疲れてしまう人もいる。だけど、いい出会いをして、それがうれしくなる人は、また、出会いたくて、人に会いたくなって、人に会うことが好きになっていく。すると、出会った人にも、出会いがうれしいと感じるようになり、その人がまた、別の人との出会いを呼ぶ。人が人を呼ぶと、また別のところで人が人を呼ぶ。これがたまらない、うれしいと感じるグループをつくる。ほんとに、人と人が出会うことが、うれしいと思う人が国民全部に感じられたら、ひょっとしたら、すべての犯罪がなくなるんじゃないかなぁ。


10月 2日 No.1243

子どもの眼力に驚くのは、大人の心どころか、その人の過去や未来まで見透かしているように言うとき!

 遠征に行くと、去年は出会えなかった子に、出会える。つまり、この一年に引っ越してきたか、小学校にあがったのか、去年もいたのに、会場までこなかった子である。そんな子に出会えると回りの子は去年も僕に、会っているから、すぐ、「どこにいってたん。待ってたのに」とか言いながら寄ってくるのだが、去年、出会えなかった子は、少し必ず様子を見てからやってくる。そんな子の中に、なんて眼力がするどいんだぁって驚かせられることがある。僕をみたとたん「このおじさん、なんかええかげんやなぁ」と。僕の天性のええかげんを僕の小さいころから見透かしたような、見事ないい方。そこで、僕はすかさず「ごもっともでございます。これからも、こんなええかげんなまま、脳天気に、生きていこうと思っていますので、何とぞよろしくお願いします」と言うと、その子が「そやろな。それしか生きていけないよね?おじさんの場合は」と、これまた、ずばり、その通り。そこで「僕の未来まで見通していただきありがとうございます」と言うと「おじさん、頭つかってへんやろ」と言われ、もう返す言葉も、どこにも落ちていませんでした。ご指導まことにありがとうございました。えへぇ〜ん。


10月 1日 No.1242

赤ちゃんは、笑い方を教えていないのに、笑う。大人は、笑う体験があるのに笑えない。

 笑って水にながすとか、さっきまで泣いていた子がもう笑ったとか、大人なら、つくり笑いや、笑ってごまかすことぐらい日常茶飯事だろう。つまり、大人は、笑いが人とのコミュニケーションの一つとして、緩和剤の働きをすることを体験から学んでいる。だが、赤ちゃんは、無垢で笑う。なんの体験もない赤ちゃんが笑うと、いいなぁと思う。生後6ヶ月ぐらいの赤ちゃんが、お母さんに背中をさすってもらってゲップが出たかと思ったら、にっこりしながら「ぇえへ えぇへ ぇぇぇ」という笑い声をだすと回りの空気が「かわぃぃ」に変わる。その笑っている口を見ると、上も下もきれいなピンクの歯ぐきだけ。こんな笑いかたを僕もできていたのかなぁ。できていたのなら、どこにやっちゃったのかなぁ。笑いじょうごの僕でもあんな無垢な笑いは、今、宿していない。どこにおいてきたのかなぁ、僕の無垢な笑い。