ブックドクター・あきひろのイチニチイチゴン
ブックドクター・あきひろの一日一言。…日々想うことを語ります。



1月 31日 No.999
手に入れたいものが「物」か「者」かで欲のからみ方に違いをみせる

「物」の方は、家、高級車、高級バックなど、その物の形や色などを鮮明に思い描き、欲しいと言う思いとともに手に入れるまで、消えることがないのが「物」の欲である。ところが「者」の欲は、地位や名声、支配への欲が多く、あの社長のイスに私が座ることになったらとか、あの者に変わって私がなったら、こんな風にするとか、ある者に変わった自分の姿や脚光を、思い描く。特殊なモノを求める場合は、まだ誰も見たことがないと言われる金銀財宝の宝物の山や、その道にいい伝えられてきた伝説の解明、遺跡、学問、科学者、解かれていない数式や解かれていない未知の体の各部位や、細菌の発見や、ガンの特効薬など、それに目標や達成感など、まだまだ、人の欲は多種多様になりそうだが、「幸せのこたえ」は、決して欲の延長線上にはないということを、知っておいてほしいものだ。


1月 30日 No.998
子どものころ、日曜日が来るのを楽しみにしていたのに、今は、ハッと気がついたら日曜日が来てしまった、と感じる大人になってしまった!

子どものころ、日曜日が来るのを、月曜日の朝一の授業から、「早く日曜日来ないかなぁ」って思っていた人は、日々、遊び心満載だった時期を送ったことだろう。僕もその口だったから、よーく分かる。つまり、朝から晩まで遊べる日曜日に、何をして遊ぼうか、それを考えることでワクワクしたり、イヤな授業から、逃避することができた。今、「今日は何曜日だっけ?」と聞いて「日曜日です」って教えてもらうと、曜日も分らなくなるほど、時間に追われていたのかとか、毎日の作業に追われてしまっていたのかと、ハッとする。子どものころは日曜日を能動的に待っていたのだろう。今は、気がついたら、日曜日が来てしまったとか、きのうは日曜日だったのかとなるほど、受動的な日曜日になってしまった。何とか、あのころのように日曜日を能動的に、楽しみにして待てる感覚を取り戻さねば。


1月 29日 No.997
「一つのことをよーく見てみなさい。お母さんも一緒に見るから」って言うセリフは、なぜか子どもを喜ばす!

子どもが何か一点に集中して見ているときに、声をかけても、受け入れてもらえる声は、やっぱりお母さんの声が一番いい。そんなとき、子どものそばに「何を見てるの?」とかいいながら、そっと横にいき、子どもが「これ」って言ったら、「一つのことをよーく見ることは、とってもいいことよぉー。じーと、見ていると、そのうち、今まで見えなかったことも見えてきたりするから。お母さんも一緒に見てていい?」なーんて言われた子どもは、一つのことをよーく見ることはもちろん、その後において、その対象物を見るたびに、お母さんとじーと見た喜びとともに思いだすにちがいない。


1月 28日 No.996
子どもが、ことあるごとに、親から叱られるのは、当たり前。でも、そのとき、血がつながっている親が、バカにした一言をはくのは、当たり前ではないからね!

子どもが何か、悪さをしたとき、親が叱ってでも正すのは当たり前のこと。でもそのとき一言、親が、血がつながっている我が子に、バカにしたセリフをはくと、言われた子どもは、相当のショックを受ける。血のつながっていない先生に、バカにされても、どうせ先生とは一生付き合うわけじゃないって思えば、叱られた気分を少しでも和らげられるが、血がつながった親は、そうはいかない。例えば「それをしたら、どうなるか、そんなことも分らなかったの?」で止められる言葉なのに、そこへさらに「ほんとに、バカね」と、一言ついたなら、子どもの心うちを想像できると思う。このバカにした一言が、当たり前になってしまうなら、もう、「子育て」ではなくなってしまうだろう。


1月 27日 No.995
たくさんお母さんはいるけど、いったいどれだけのお母さんが、ただほほ笑んで、いってらっしゃい、ただほほ笑んで、おかえりっていう当たり前のあいさつを、毎日、きっちりしているのだろう!

今日の朝、都内の列車の入口付近に乗っていたら、ある駅で小学生2、3年ぐらいの男の子とお母さんが駆け込んできた。お母さんはプリプリ怒りながら「だから、きのう、あれだけ早く寝なさいっていったでしょう。あなたが、ちゃんと起きるって言ったから、お母さん信じて、観させてあげたのに、ちっとも起きないじゃない。今日はお母さん、会社でとっても大事なお仕事があるのに。今日からは、やっぱり、早く寝せますからね。いいっ?ねぇ、いいっ?ちゃんと返事をしなさい!」って、僕の横で言っていた。ある駅に着いたら、その子だけが「いってきまーす」と小さい声で言って降りていった。そんなときだょ、はじめて親として、信じてあげるのは。あの子はちゃんとわかってるって。そして、ほほ笑みながらこういってあげるんだょ。「お母さん、つい朝から怒ったゃったけど、今日がんばって来てね。それじゃ、いってらっしゃい」ってさ。そのあいさつの繰り返しが親が親たるゆえんになるから。


1月 26日 No.994
想像力って、想い描いた像を動かす力のことだよね。子どもは、この想像力を働かせながら、いろんな行動をとれるからすごいんだよ

今まで、何度、子どもの想像力について一日一言させてもらっただろう。今回も、また、尽きることのない、子どもの想像力についてちょっと話させてほしい。例えば、子どもは歯を磨きながら、頭の中で想像力を働かせ、空を翔んだり、体育の授業で、大嫌いなマラソンをさせられていて、体がキツくなってきたとき、頭の中で想像力を働かせ、フカフカのベットに寝転びながら、まんがの続きを想像し(二重想像)、さらに、好きなものを次から次へ想像し(多重想像)、さらにさらに、想像をふくらまし、スヤスヤ寝てしまうことを平気でやってのける。想像力を働かせ、体のキツさを少しでも和らげるために、頭の中では気持ちよく寝ているのである。子どもの想像力のすごいのは、想像しているところへ、次の想像を次から次へ重ね合わせ、その想像を頭の目か、心の目かどちらかわからないが、その目で見ながら、肉眼で見ている世界も、像にして、直視画をも、その最終想像画に重ね合わせても、パニックにならずに、平気でいられるところにある。大人なら、完璧にパニック思考になるが、子どもは平気どころか、楽しんでしまう節もあるからすごいのである。


1月 25日 No.993
人に暗示をかけてでも、良き道へ向かうよう悟らせてあげることを、點醒(てんせい)と吉田松陰は言ったが、今、教育にも子育てにも活かせたいものだ

點醒(以後 テンセイ)の意味は他に、暗示を使うべきときに使い、暗示を使わないでいいときは、決して使わないと言う意味もある。暗示は、言葉の暗示もあれば、ないものもある。松陰は優れた指導者だったために、テンセイを使いこなせても、本当に伝えたいことは、言葉ではなかなか伝えられないことを見抜き、その塾生のそばにただいてあげたり、その人に接するときは、たった一度、肩をポーンとたたいて励ましたりするだけで、俄然やる気をおこさせてしまうほどだった。その天性の指導者がテンセイを使うほど、人を導くのは難しいものだと言っているのだ。人を導く立場にあるものは努力して「教えて教えないこと 教えないで教えること」のできる姿勢で臨んでほしいものだ。


1月 24日 No.992
今も昔も子どもは、お母さんに叱られるのがイヤだから言い訳する。でもこれからの親の解釈として、実はそのときが華なんだなぁと知っておいてほしい

多くの親は、子どもが言い訳をしてくれているうちが華だと思っていないだろう。なぜなら、今の親御さんがかつて子どもだったころ、何か叱られることをしたとき、なぜ、そうなったのか親に説明しようとしたら、すぐ「言い訳をするんじゃありません」と言われて、今、親になっているから。あのときの自分と同じように、我が子が説明しようとしているだけなのに、そのときの自分の気持ちは忘れ、「言い訳をするんじゃありません」と言われたことだけ鮮明に覚えているのでその通り自分も我が子に言いながら叱ってしまう。我が子が幼いうちは、説明ならぬ言い訳をしてくれるが、そのうち「頭ごなしに、理由も聞かずどうせ『言い訳をするんじゃありません』って言うに決まってるんだから、何も言わない方が得だなぁ」と我が子が思ったら最後、親に言い訳どころか口も聞いてくれなくなるだろう。


1月 23日 No.991
思い出は、ほのぼのとするものや、辛かったりするものの他に、甘かったり、にがかったり、味のするものもあるよね

誰でも、甘い思い出やにがい思い出なる、味のある思い出を持っていると思う。その思い出は、どうして、甘かったり、にがかったり、味のする思い出になったかというと、その思い出を自分が、今も味わった思い出として捉えていたり、いつでも味わえる思い出として出したりひっこめたりしているからである。そんな味のある思い出を、一つでも多くつくるためには、普段から、なにごとも、しみじみと味わいながら、見たり聞いたりする心のもちようが、もとめられるだろう。


1月 22日 No.990
自分で自分のことがわかるのは当たり前だし、自分で自分がわからないのも当たり前

自分で自分がわかっていることって、「自分がしてきたことや思ってきたこと」をベースにしているから、わかって当たり前。反対に自分で自分がわからないのは、「まだ自分がしたことがなかったり、思ってもみなかったこと」がベースになるため、振り返ったとき、あのとき、なぜあんな行動をわたしはとってしまったの?とか、とっさだったから、今、思えば自分でも信じられないほど、積極的だったとか、とりみだしたとか、自分がまだわからっていなかった自分をみる。これも当たり前のこと。だってもともと、わからない世界へ、ひとつでもわかるために人は生まれてきてるんだから。


1月 21日 No.989
個人とはあくまでも単一。個性は「個」がつくけど複数を含む場合がある

個人の個性という場合は、その人その人の単一の個性を言うよね。でも、あのチームは個性あるよねぇ、って言う場合は複数人のかたまりを、ひとからげにして言った場合だよね。だから、個性といっても複数を含む場合があることを、ちゃんと把握しておかないと、個性をのばそう!と、いくらスローガンをあげても、人によっては、もうすでに個性をちゃんと出している場合もあるし、チームの中で、つまり、複数人集まったときにしか、その人の個性が活かされなかったり、表れなかったり、出てこない場合があるってことだからね。


1月 20日 No.988
愛想が尽きるとは言うけど、愛想疲れたと言う意味だと思って使っている人が最近多いんだよね

愛想が尽きたと言う表現は日本人らしいなぁと思う。愛想とは、好意をもって相手に対する気持ちを言うが、その気持ちが、あまりのバカらしさにあきれてものも言いたくない気持ちになることをしでかしたために、もうこれ以上相手をするのがいやになった状態になり、それを尽きると表現した。だが今は、愛想ばかり振りまいてしまう自分に疲れたり、愛想笑いばかりして疲れたりする人が増えたために、愛想疲れの意味で表現する人が増えたのだろう!これはこれで日本人らしいと言えば日本人らしい。でも、本来は使わないからね。


1月 19日 No.987
さりげなく何かができる人っていうのは、それだけで徳のある人!

人が人に、さりげなく何かをしてあげるところを良くみていると、その人の人徳が感じられる。例えば、年老いたお母さんを息子が車にのせて、病院まで送ってくる親子を病院にいれば待合室で待っている間に何組か見かけるが、いろんなさりげなさの中に、その息子がどれだけ母親を思っているのかの度合いを感じることができる。ただ玄関口まで乱暴に運転してきて、母親をかってにおろすと、すぐ行ってしまう息子をみたかと思ったら、母親を玄関口まで送ってきて、さっと車から降りて後ろに乗せている母親のドアを開け、母親をいたわるように肩にそっと手をそえ、待合室に母親を座らせると、急いで車にもどり、しばらくするとさりげなく走ってきて、母親の横にそっと座り、母親が呼ばれるまで、さりげなく背中をさすったり、さりげなく声をかけたりしている息子だったり、息子にも母親にも徳があるところとないところがある。徳って、さりげなさの中にあるのかも。


1月 18日 No.986
尊敬する人との5分は、自分の眠っている感覚を簡単に起こしてもらえる!

尊敬する人と会えると、信じられないほど緊張したり、何をしゃべっていいのか解らなくなったり、急におどおどしたり、単純にびっくりして自分を見失ったりする。でも、そういった感覚は、普段は自分の体の中で眠りほうけている感覚。それを自分が尊敬している人は、その感覚を簡単に起こしてくれる。また、言い方を変えれば、心から尊敬する人を見つけていないと、自分の体に眠っている感覚を起こしてもらう機会がなくなってしまうということ。だから、昔の人は、子どもたちにことあるごとに、こういった。「心から尊敬する人を見つけなさい。そして、見つけたら、自分もだれかに尊敬されるような人間になりなさい。それは決してさびることのない感覚のためにも」と。


1月 17日 No.985
待って、待って、ただ信じて待ってあげることが、親の修行!

我が子をただ信じて、ただひたすら待つ。この気持ちを織り込んだ映画や小説は非常に多い。それを実践している数は?というと、これが決して非常に多いとはいえないだろう。待ってあげることは良いことって知っている数は非常に多いのにである。じゃあ、なぜ実践しようとすると、待ってあげられなくなるのか。それは簡単!。血がつながっているから。血がつながっていることが、もう、これ以上言わなくても解っているだろうと分かっていながらも、それでも言ってしまうことになるのだ。よその子なら、まぁ、いいか私の子じゃないし、と思えるのに、我が子はそう思えないところに感覚的な血が関係してしまう。だが血が関係するがゆえに、待つことを実践していくことが、我が子に信頼され、我が子を信頼する親の修行になるのである。


1月 16日 No.984
優しい人にキツく、コワい人に優しいなんてへんなの!

人の顔色ばかり見てきていると、自分の感覚ってヤツが、どのあたりの感覚が、にぶくなってきたのか、また、それさえ解らなくなるほど、自分が人からどう思われるかに捕われてしまうため、自分がない人になってしまう。そんな自分のない人になってしまうと、自分に優しく声をかけてくれる人には安心して文句や少々キツくあたってもこの人は大丈夫だという、自分に一番都合の良い解釈や感覚が働くことになり、コワい人には、無意識に媚びへつらったり、優しい言い方になったりする。もともと自分がしっかりしたものをもっていないため、コワい人や苦手なタイプの人から、自分がイヤなことでも何か誘われれば、イヤなりにその場の楽しみ方が出来てしまう。そんなへんな感覚の人に出会ったら、そんな人には、気を使ってでも好かれないこと(笑)。だって人間が生まれてきて、幼い頃に最初に授かるもともとあった感覚は、優しい人に安心を感じ、コワい人に不安を感じて近づかない感覚だょ。


1月 15日 No.983
人が人にものを伝えるために、文明が進歩してきた!

人間は人間にものを伝えるために、言葉をあみだした。そして文字をあみだした。あるときは体を使い、また、あるときは目を使ってきた。あるものは、背中で語りもした。ある才能の持ち主は、絵を使ったり、文章を使ったり、音楽を使ったり、楽器を使ったり、歌を唄ったり、像を残したりした。夜なら、火を使って危機を報せたり、モールス信号や電話や電報、電子通信機器の発達からは、ラジオ・テレビ・新聞、メール、携帯電話など。今日にいたってはライブで語ることの大切さが、どんどん失われる怖れがある。今一度、口づたえを見直してほしいのものである。


1月 14日 No.982
前から何かしたいと思っていることがあるなら、あとは踏ん切りをいつもつかだね!

子どもが何か夢のある話しを、お母さんにしたとする。そして、その夢のある話しをお母さんが気にいったとすると、心の底からすぐにでもさせてあげたいと思うよね!?。つまり、なかなか踏ん切りをつけない我が子に自分が踏ん切りをつけてあげようとするでしょ。この踏ん切りを我が子や人のためには、つけてあげようとできるのに、自分がしたいことをしようとする踏ん切りには、なかなかどうして、しぶといほど踏ん切りをつけられない。こんな人は自分のことを思ってくれる人から「それいいじゃん。思い切ってやってみなよ」って言われたときを自分の踏ん切りにしてみよう。ちなみに、前からそうしたいと思っていることを素志といい、それを実行にうつしたとき、素志が明ける、というけど、自分の志(おもい)は、いつでも夜明けを待っているもの。


1月 13日 No.981
夜を怖がる子どもは昔も今も変わらない!

子どもは夜を怖がって当たり前。だって、まだ何で昼が来るのか、夜があるのか解らないから。夜に目を覚まし、そばにお母さんがいるだけでホッとする感覚は理屈では説明できない。でも、幼いときから、部屋を与えられて一人で寝かせられていると、夜にふと目を覚ました場合、その理屈でないホッが得られず、訳の解らない恐怖にさいなまれることになり、そこで泣いて、その怖さに対抗しようとする本能が働く。そんなとき、もし、お母さんから抱きしめられず、叱られようものなら、その子の心に夜を怖がる種ができてしまうことになるだろう。


1月 12日 No.980
優しく背中をさすってあげるだけでお母さんの愛情が伝わるものなんだね!

電車に乗ったら、保育園の年少さんぐらいにみえる男の子が、コンコンとセキをしていた。座っていたお母さんが抱きあげても、まだセキをしている。お母さんが優しくなめらかに背中をさすり始めた。だんだんセキをする回数がへっていく。お母さんがゆっくり背中を鼻歌まじりに合わせて、ぽーん、ぽんたたく。男の子の目がうろーっとなってきた。お母さんの右肩をまくらに、口びるのふちによだれをためながら寝てしまった。電車にゆられ、お母さんの手の優しさと愛情にゆられ気持ちよさそうな寝顔だった。お母さんの愛情は、我が子のセキさえとめてしまう、魔法の手かもしれない。


1月 11日 No.979
上手くいかないことはあるけど、上手くいきつづけないことはない!

上手くいかないことは山ほどある。そんなとき、自分以外の人はみんな上手くいっているように見える。そして、また、自分だけが上手くいかない絵図が浮かぶ。その絵図を浮かびつづけさせることが、次なる上手くいかないものを現実のものにする。上手くいかないから、上手くいかない絵図を思い浮かべることが上手くなる。だがそれが上手くいかなくなるからくりの正体である。上手くいかないときは、上手くいかないことが、いつまでもつづくはずがないと思い、上手くいかないこの流れがくずれるのは、どんなときだろう?って思い浮かべ始めることが、上手くいくことを運び始めるのさ。


1月 10日 No.978
お腹が減りきって、それでも凜として、動かなきゃならないときがある!

世の中に飛び出したら、どんなにお腹が空いていたって、凜として体を動かさなきゃならないときがある。それなのに、今の小学生の中には、一日中おかしを食べ、ちょっと動けばすぐ水分を取り、これでお酒の味を覚えたら、一生、肥満体とつきあうことになるだろう。年々、低学年の小学生肥満が増加の一途をたどっているというのに、敏感になっている親は少ない。一番困るのは、将来の本人。親もたった5kgの体重を落とすのは、なかなかできない苦労をしっているなら、肥満にならないよう制してあげなきゃ。それぐらい親ならわかるよね!?


1月 9日 No.977
人生は誰もが、自分が主役さ!

今日、喫茶店で横の席に男性が二人、年のころ25、6才に見えるサラリーマンが向かい合わせでコーヒーを飲んでいた。そして一方の男性が、年明けそうそうだと言うのに「どうせ俺なんか、いつも脇役にしかなれねえんだぁ。なにやったって行き着くとこは脇役だぜ。あーあー、俺も主役張れる仕事してぇーなー」と。そしたら、もう一方の男性が「俺もおまえといっしょだょ。俺、思うんだぁ。多分、主役張るヤツって、生まれたときから、主役なんだょ。俺らは生まれたときから、脇役が決まってたんだょ」と。そして二人が「だよなぁ」って言いながら笑った。ばかなことを・・・。自分の人生だけは、自分が主役を張れるように、神様はしてくれてるって言うのに。


1月 8日 No.976
選び間違えたら、選び変えるのは当たり前!

選ぶときにスパッと直感的に選ぶ人もいれば、さんざん悩みに悩んでちょっとでも自分が得するように選ぶ人がいたり、人の人生はこの選択力にかかっているとも言える。だれだっていいものを選びたいと思っているけど、たまには、選び間違えることがある。このとき、選び間違えたことを、認めたくないばかりに、そのまま間違えたままの道を選ぶ人もいるけど、そんなときは無理をせず、選び間違えたんだから、それを素直に認めて、すぐ選び変えることを選んだ方が結果、いいことが多いんだょ。


1月 7日 No.975
お見事!その眼力!

デパートの中にある書店さんで、本を2冊選んでレジまでいくと、タイミングが悪く4人が並んでいた。しばらくすると、先頭のおばさんが店員相手に何やら大声で怒こりだした。内容は駐車券を預けた預かってないの口論!。おばさんが「わたしは絶対、あずかってなぁーい!」と声をはりあげたときだった。すぐ後ろにコミックと物語をもった、小学校3、4年ぐらいの男の子が「あのー」とおばさんに声をかける。おばさんが「なにっ?」ってキッとした目でその男の子を見た。そしたら、その男の子が「おばさんの右のポケットにあります」と言った。おばさんはすぐ右のポケットに手を入れて「あっ!あれ、わ、わたし、知らんあいだに入れたんやろか?」と言うとそそくさとバツが悪そうに行ってしまった(笑)。店員さんがその男の子にありがとうねって声をかけると、男の子はいった。「僕の前にわりこんだからずっと見てたんやもん。ああ言うおばさんはたいてい早とちりのくせに何でも人のせいにするもん。それに絶対って大声で言うおばさんは、僕は信用せんから」と。
 やるぅー!


1月 6日 No.974
イヌ年にちなんだ格言を一つ
「一犬虚にほえて、万犬実に伝う」

この格言の意味をば一つ。一犬虚にほえてとは則ち、だれかが間違いに気づかず、または間違っているのに、そのままそのことを言いだすと、万犬実に伝うの通り、それをまるで自分が調べてきたかのように多くの人が、それを事実かのように自分もそれにのっかって、あちこちに風潮して伝わるさまのことを言う。カナダの先住民のイヌイットの逸話の中に、こんなのがある。
☆いつも吠えてた犬が吠えず、いつも吠えていない犬が吠えてたとき、「真」が授かる☆と。


1月 5日 No.973
さぁ、仕事初め。これから一年、お世話になる命道具の手入れから始めるのもいい!!!

今日はみんなと朝までいたため、興奮してそのまま仕事初めとなった。神社に行って手をあわせ、みなの何より健康と車生活の遊牧民みたいな僕たちにとって、交通安全の祈願はかかすことができない。すでに相方のしんちゃんは2日には、初仕事初読みを終えている。さすが、我が相方。僕は神社から帰ると、まっさきに絵本の箱を開け、一冊一冊、読んだり表紙のカバーを新しく換えたり、ふいたりした。我が一族の仕事初めのナラワシは、やっぱ身も精神(こころ)も、引き締まるなぁ。僕はこれで始めないと正月気分がふっとばない。どなたか、正月気分が残っている方はお試しあれ。


1月 4日 No.96972
イヌ年にちなんでイヌが出てくる絵本、小説、映画などを家族で愉しんでみよう!!!!

今日は朝一で近くのビデオ屋に南極物語を借りにいって観ていた。そしたら、一族のおじさん、おばさんも、主演の高倉 健さんと二匹の犬にくぎづけになり、おばさんが目をうるませていた。正月そうそう、感動ついでに孫のチビたちに「ゆうたくんのいばりいぬシリーズ」を全九巻一気に読み、さらに調子に乗って、新堂冬樹さんの短編小説 「動物記」の中の兄弟犬ミカエルとシーザーを音読してあげた。そしたら、孫からおじちゃん、おばちゃんまで、おひねりならぬお年玉をこの年でもらってしまった。みなさんも、家族で犬が出てくるお話をしてあげれば、思わぬお年玉をもらえるかも・・・・・・(^O^)/


1月 3日 No.971
初夢は何を見ましたか?みなさんの初夢が、どうかイイ夢でありますように!!!!

今日は朝早くから、ちょっとした用事に出かけた。用事が終わって、ようやく時間ができたので、港まで行って、車の中でおにぎりを一つ食べたら、急に眠気が襲ってきて、そのまま1時間ぐらい寝てしまった。そして、目を覚ましたとき「ええ夢やったなぁ」って思える夢を見た。ふと、今年初めての夢だなぁと思って、こんな夢が僕にとっての初夢だなんてありがたいなぁと思った。いち富士、にタカ、さんナスビは出てこなかったが、すんげぇー犬が、ある宝物をもって来る夢だったので、めちゃくちゃ満足っす。みなさんの初夢が良き夢でありますように!


1月 2日 No.970
自分が何をどうして、どうしたいかって、20冊の絵本を読むと、解り始めるからたまんないね!

僕は何か一つ、自分が決めた小さい目標をクリアーすると、本屋さんの絵本コーナーへ行って20冊のいろんな絵本を読むようにしている。なぜ20冊なのかと聞かれても、僕もはっきり覚えていないが、たぶん10年ぐらい前から身についている。どう20冊を選ぶかというと、背表紙を見て、まだ、一度も読んだことがないかどうかを確認し、読んでいないと解れば、すぐに読む。あとは当然、その月にでた新刊は読んだことがないので、これまたすぐに読む。これを20回繰り返す。そうすると「よーし、今度はこれをやってみよう」と思える次なる小さな目標がさずかるから、たまんなくなるね!
年がかわった今の時期に、是非試してみては!?


1月 1日 No.969
2006年!平成十八年!戌年!皇紀二六六六年!
明けましておめでとうございます!

今日は元旦。2006年の一番初めの日。まず、感謝から初めたい。我ら朗天狗と、その仲間のみなさんと、一月一日になった瞬間、日本一の神社で、ともに手を合わせたことは、何より悦ばしい。そして、たくさんの方々から新年のあいさつをいただき、心から感謝しております。これ本当に。元旦から、こんな嬉しい気持ちにさせてもらったみなさんに、どうしても、感謝することから初めたいと思った。今、僕の2006年はこうやってすべての仕事が始まることにもまた、感謝、感謝です。これで我ら朗天狗、この戌年の一年、犬のように働き、一生懸命、善き・良き・好きものを嗅ぎわけ、その「よきもの」を、みなさんのもとへ届けられるよう、翔け廻っていきたいと思いますので、何とぞよろしくお願いいたします。
朗天狗 あきひろ(^-^)