一日一言

9月30日 No.512
大人はいつも、子どもたちにスキを衝かれる生き物である。それでよい。
子どもたちは常に、大人たちのスキをうかがっている。かつて僕たちが子どものころそうだったように。あの能力を、どこにおいてきたのだろう。おいてきてはいないとすれば、変化したに違いない。それは、大人になって、上司の目を盗んでサボるために使ったり、めんどくさそうな空気を察知したときなどフルに使っているのだろう。子どもたちが、親の目や大人の目から逃れるためになぜスキをうかがうかみなさんはご存じだろうか。それは、親ばなれ、自立心、危険回避能力、人間関係に必要な距離感など、いずれかの芽が芽生えたときが大筋である。良い大人は、わざとスキをつくって、その能力が真っすぐ育つよう見守るのである。

9月29日 No.511
子どもに気を遣ってもらえる大人は、幸せである。
今日、北海道の弟分の家で朝目を覚ました。弟分の家には、五才と四才の伸び盛りな、女の子の姉妹がいる。その姉妹が、「朝ですよー、起きなさぁーい。もう、何度も言わせないの。起きなさぁーい」と言って起こしてもらった。僕が「もう少し、寝かせてくだぁーい、むにゃむにゃ」って言ったら、お姉ちゃんが、「どうしたの?どこか具合が悪いのなら、すぐ診てあげるから、どこが痛いのか、ちゃんと言いなさぁーい」と言うと、妹も「お仕事が始まるまでに治さなきゃね」と二人が僕の胸にお覆い被さり、顔を並べながら言った。二人の幼い姉妹の顔は、本気で僕の体調を心配してくれていた。朝一から、気を遣ってもらった僕は、幸せ者である。

9月28日 No.510
人に言われて、反省と云わず。故に自らの行いを自らが反り省るより、真の反省という。
昔悪さをすると、母親に「何をしたか、よーく反省しなさぁーい」と真っ暗な押し入れごしに言われた。そのたびに、何で俺が反省するんだぁ?と思っていた。だから、何度も大人になるまで、そのセリフを言われた。自分が悪いと思っていない間は、何度でも、同じ過ちを繰り返す。今、思えば、反省する動機、反省する視点、反省する深慮、反省する個所、反省の意味の:五反:が全然できていなかったのだ。本当の反省とは、骨身にしみるほど、もう、こんないやな思いをするのは、金輪際嫌だと思うことから始まる。そこから、その行為を自分が本気になって見据え反し、自分で自分に納得のいく「ここが今まではいけなかったんだ」と、省みることにある。

9月27日 No.509
人生には、訳が解らなくても、やらなければならないときがある。
駅の改札口で、携帯電話を持って大声でどなっているヤツがいた。「じゃ、俺にどうしろってんだ、てめぇー。責任取れー。こらぁー」などと言っている。どうも、その男が今から行こうとしている先方に渡す大事なものが、待ち合わせ時刻になってもこなかったために怒り狂っていたようだ。そうは言っても、、その男は行かなければならない約束の時間が迫っていた。「バカヤロー」と怒鳴ると、電話を切って走って行った。怒鳴った方も怒鳴られた方も、訳がわからないまま、動かなければならないもどかしさのようなものが伝わってくる。こんなときの訓えが論語にある。訳が解らないまま行動するときは、初めの志しが何だったかを思いだす。これだけは己が解っているはずである。この初志さえ見失わなければ、どんな困難があろうとも必ずや、道が開けるという。これを{初志貫徹}という。

9月26日 No.508
子どもが本当に眠たそうにしている姿は、罪がないなぁと思う。
今日、ファーストフードでハンバーガーを食べたりコーヒーを飲みながら本を読んでいたら、お母さんと五、六才の男の子と、二、三才の男の子が入ってきた。たぶん兄弟だろう。それで注文を受け取って僕の近くの席についた。二、三才の男の子は早く早くとおおはしゃぎ。しばらくしてふと見ると、こっくり、こっくり、まぶたがほとんど落ちているのに、ちっちゃい右手に持ったオレンジジュースと左手のナゲットはしっかり放さない。お母さんは雑誌を見て、五、六才の男の子は次から次へポテトやナゲットを口に放りこんでいる。二、三才の男の子は、やっと待ち望んだものを両手に持った瞬間、最高の夢ごこちの境地に入ったにちがいない。その姿は、何ともいえない、ほのぼのとした罪のなさだった。おやすみZZzz。。..

9月25日 No.507
目に頼っていちゃー、人の質は見抜けない。
紳士的で言葉づかいも丁寧な人なのに、なんだか冷たい感じがする人。方や、いかつそうで、乱暴な言葉づかいなのに、なんだかあったかい感じの人。このタイプの人でイメージしやすいのが、昔シリーズになった<トラック野郎一番星>の菅原文太さんだ。他にもたくさんのドラマで、このキャラクターは設定されいろんな俳優の方に演じられてきた。それを、テレビや映画で見ながら、そのキャラクターのもつ、なんとも言えないあったかさのようなものをたくさん感じてきたはずである。日常でも、目で見た感じと、心で捉えた感じが少し違う人に出逢っていると思う。みなさんも、今一度、この感じ方で、人の質を見抜いてほしい。

9月24日 No.506
大空広がる中で読む絵本は別の生き物。
だだっ広ぉーい広場で絵本を読んむと、とても不思議なことが起きる。いつも読むんでいる絵本たちは、室内が多い。でも、外で読むと、絵本たちがいきなり開放感に溢れ出す。ちょっと、読むつもりでも、次から次に絵本が「おれも外で読んでくれー」と叫んでいるかのように光だす。この光を放つ絵本を手に取って読み出すとますます光出す。その絵本の光に吸い寄せられるように、いろんな人たちが集まってくる。これを同じ漢字を書いて「つどい」という。この絵本のつどいが日本のあちこちで広がってほしいと思う。

9月23日 No.505
秋晴れに、栄える生徒の、翔(カ)け姿。
この時期、小学校の横を通りすぎると、運動場で生徒たちが、運動会の練習している。列からはみ出す生徒を見ると、「僕もあんな感じだったんだろうなぁ」としみじみ思ってしまう。また、全体練習で体操をしている姿を見れば、当時の気持ちがよみがえる。子どもたちの声が、青空に吸い込まれる。やがて上級生の徒競走の練習が始まった。すると昔と違い今はジョギングのようなものだった。でも数名が、どっちが迅いか翔る背中姿は、秋晴れによく似合っていた。

9月22日 No.504
みんな自分が幸せになろうと一生懸命。でも、よーく周りの人たちを見てほしい。必ず、みんなの中に、自分のことより、人の幸せを真剣に考えている人たちが潜んでいる。
今の時代、みんな自分の幸せのために一生懸命なのに、ほっとするニュースがめっきり減った。神話の時代から、自分が幸せになりたいのであれば、絶対にやってはならぬ三つの条件がある。一つ、人の不幸を喜ばない。二つ、人の幸せを嫉まない。三つ、人の喜ぶ姿を見て蔑(さげす)まない。つまり、この禁を侵さなければ、みなさんも、必ず、幸せになれるということ。すでに、みなさんの周りに、この三つの禁を侵すことなく幸せにひっそり暮らしている人がいるはずです。よーく見てください。

9月21日 No.503
伊勢神宮と神話は心臓と頭の関係。そこは、神秘の世界。
神話の中には、現代にも通じる、たくさんの訓えがおりこまれている。その意味や謎にふれるとますます深みを増す。神々の怒りを鎮めるために村人たちが、当時、祈りや採れたての食物を捧げたりする、数々の神社にまつわる話しなどは、現代の子どもたちが、父や母に、怒りを静めてもらいたいがために、ごまをすったり、べんちゃらを言ったりする行動に、とてもよく似ていたりする。親子ゲンカや夫婦ゲンカの関係でも、神話の中にその驚くべく方法が伝えられている。何千年も前の方法が現代に活きることは、まさに神秘である。みなさんも、神話に機会があれば、ぜひ神話にふれてほしい。

9月20日 No.502
我が子がおとなしくて、じっとしていることが多いことと、何もできないことは、同じではない。
もし、我が子が病気でもないのに、本当にトイレにもいかず、食べる事も何もできないのなら、それは何かしらの煩しい思いをもってしまったにちがいない。でも普通は、家にいるときの子どもは、何もしていないように見えるだけで、何もしていないわけではない。僕から見れば、家は本当にほっとするのか、何もする必要がないだけのように見える。親が「ちょっと手伝って」と声をかければ、ほとんどの子どもは手伝ってくれることを、親は知っておかなければならない。

9月19日 No.501
世の中には、初対面なのに、一瞬にして友達になってしまう人達がいる。
例えば、子どもたちを地方の遠く離れた海へ海水浴に連れていったとする。しばらくして子どもを探すと、よその子どもときゃっきゃっ言いながら遊んでいる。生まれも育ちも、考え方も何もかも違うのに、子どもたちは、一瞬にして友達になってしまう。これを大人になっても、自然にできる人がいる。気がつけば、その人は、みんなと友達になってわいわい騒いでいる。周りの人たちがその集団を見たなら、何年来の友達同士が久しぶりに会っているかのように感じることだろう。願わくば、僕もこんな人になりたいものだ。

9月18日 No.500
中学生は、もう絶対、大人だよ。
大人だと思って語ると、必ず話しについてきてくれる。多少、深い話しをしてもぜんぜんへっちゃら。その事を本気で解っている大人が、今の中学生の周りに、いったいどれだけいるのだろう。昔より、かなり減ったことだろう。今の大人たちは、かつて自分が、中学の頃、大人に子ども扱いされたら、なぜか、無性に頭にきたあの気持ちを忘れてしまっている。それは、今の中学生もかわらないのだ。そんな気持ちを本気で解って、語ったなら、彼らはきっと笑みを浮かべて応えてくれるのだ。中学生の笑顔のかたまりは、また、別格で格別なものであることを知るだろう。

9月17日
子どもの気持ちを分かっている人は子どもとちゃんと話しができる人。
子どもの気持ちを分かっている大人か、分かっていない大人かを、直ぐ見破る方法がある。それはたった5分、その子どもと大人に話しをさせればいい。普段、子どもの気持ちを分かっているようなつもりになっている大人ほど急におどおどしだす。子どもたちは、直感のかたまりなので、そういう、おどおどする大人を簡単に裁いてしまう。じっとしていないか、「つまんな〜い」と言われるか、それはそれは、いっさいの無駄なく見事に裁く。でも、子どもがその大人の目をじっと見ていたなら、よほどその子どもの気持ちを分かってくれる、興味を惹く何かを、その大人の目の中に見つけたにちがいない。

9月16日
手のかかる子どもほどかわいいと言われた時代があった。
なぜ手のかかる子どもほどかわいいのかというと、親が子育てを振り返ったとき、手のかかった子どもほど、印象に残るシーンが本当に多いからだ。おりこうな子どもだと、ふりかえったとき、「小学校のときから大人になるまで、ずっとおりこうだったわぁ」という全体を通しての印象になってしまう。つまり、小学校のときはこういうおりこうだった、中学のときはこういうおりこうだったと、わけられないからだ。しかし、手のかかった子どもは、小学校の3年生のとき、とか、中学校1年生のとき、など具体的に苦労したときのことを親も、どう苦労したかを、鮮明に覚えるものなのである。まさに親冥利につきるのさ。

9月15日
子どもの一言には大人はかなわない!ことを本気で大人が勉強しようぜ。
家の中で。車の中で。学校で、いろんなとこで。子どもは、感じたままの一言を発する。それがグサッときたり、ふぁ〜としたり、ドキッとしたり、さまざまな一言を、誰に教わらなくても、そのタイミングに一番ぴったりの絶妙な言葉を発してくる。こっちは、ぐっ!となって、唸る。子どもたちは、大人を唸らせてやろうという、やらしい気持ちなどまったくない処がまたイイ。だから、とてもこの能力にかなうものはないと識るべし。

9月14日
親が子どもを心配する以上に子どもは親のことを心配している。
いつの時代も、お母さんの我が子への心配事は尽きない。でも、この心配事をよーく見ると、今と昔では少し違ってきているように思う。昔の親は我が子の行く末を思えばこその心配事だった。今の親は我が子の事で母自身・父自身が嫌な思いをさせられはしないかという、不安に近い状態のような心配事になってきているように思う。こんな親の子どもは、うちの親は、いつも不安そうだけど、本当に大丈夫だろうか、と親をいつも心配している。

9月13日
子どもたちを見習って「さっき泣いてたのに、もう笑った」という切り替えでいこうよ。
今日は、子どもたちを見ていて、凄いなぁと思うことのひとつ。さっきまで、わんわん泣いてた子が、ふと見ると、もう笑っている。このときの子どもたちの気持ちは、どういう心の切り替えがあったのだろうと思う。大人がこのワザを意図的にできたならどんなにいいだろう。例えば、さっきまで、もう私はどうやって生きていったらいいか分からないといっていた人が、少ししたら、次を目指して大声で笑っている姿。

9月12日
「昔はよかった」と言えるようにするための今日にしようよ。
今は携帯電話があれば、カメラがついて、テレビも見れ、買物ができ、メモや録音もできる。そのうち、ゴールドカードみたいに携帯電話そのものにランクをつけ、その携帯を見せるだけで、その人の身分がパットわかるようになるだろう。それでも、どんな時代になろうとも、人々には今日という大切な一日が来ることは絶対かわらない。そのとき、その時代の渦に巻き込まれながらも、「昔はこんな風に毎日をすごしていたなぁ」と言える今日にしておこう!

9月11日
人間の目は、まぶたを閉じても視える力をもっている。
多くの場合、見るというと、まぶたを開けて肉眼でみる事を指す。たが人間の目は、まぶたを閉じても視える能力(チカラ)がある。頭で視るときもあれば、まぶたの裏に、幼なかったころに視たものが映るときもある。日常でも、楽しかったり、うれしい出来事があると、鮮明にまぶたを閉じているのに、はっきり視える。それほど、人間の目は優れている。感性ゆたかな子どもたちなら、なおさらである。たがらこそ、親は笑顔で話しかけてあげてほしい。

9月10日
人生はあっという間に終わるもの。だったらもっと人のことより、自分のことを気にしなきゃ。
世の中には、人が何を言おうが、気にしないようにしようと思っても気にしてしまうタイプの人がいる。かと思えば、世の中を少し気にした方がいいかも、と本人が思って、気にしようとしても、つい忘れたり、他の興味に気を惹かれるタイプがいる。さらに、人にも自分にも最初から気が無いため、何を気にしたらいいのか、よく分かっていないタイプ。人はそれぞれと言うが‘気にする’ジャンルは僅かしかない。

9月9日
子どもの笑顔は親子関係に比例する。
お父さん、お母さんがしょっ中、笑いながらどんなくだらない話でもしている関係で育った子どもは、底抜けに明るくなる。これを家庭が明るいという。理想っぽいが現実にこういう家庭を築いている家がある。一般に多いのが、家の中でお父さんは、恐い役になっていたり、必要なことしか話さなタイプの家でも、お母さんが家の中のジョイント役で明るいと、子どもは、要領よく明るくなる。子どもの笑顔は、親子の笑顔の数次第で、年令に関係なく身につくもの。

9月8日
昔から、天災は忘れたころにやってくる!と云われてきた。
昔から人は、地震、台風、噴火、津波、雷など、天災を「神の怒り」と捉え、神に怒りを鎮めてもらうために、神社で祈り、祭りをして慣わしてきた。それは人びとに、天災の恐さを忘れることのないようにするためのものでもあった。だが、文明の進歩に伴って、天災の恐さを忘れると、天災は人間に容赦なく猛威を震う。今一度、普段から家族で防災意識を高める語らいをして、心にピリッとした備えをしておくよう見直そう。天災を忘れないように!

9月7日
利を求めて理を得ず。理を以て利を選る!
大人が計算をして、もの事に充たる場合、必ず利益を求めている。これを計り事を巡らすという。目的を達成したとき当然、利益を得ることになるが、これは利得という。利得をものにしても、決して得られないものがある。それは<理(コトワ)り>である。筋道をたてて正しく判断していく行いと言ってもよい。利益を求めれば、やがて、人のことなど、なりふり構わずとなる。たが、これを整え、利を選びながら、もの事に充たる様を理会という。これこそ[理を以て利を選(エ)る]である。

9月6日
どの人生にも、一つ、分かっていることがある。それは、何も起こらない訳がない、ということ。
人生は、筋書きのないドラマだ!と言われるほどである。つまり、どの人生も、必ず、何か起こるのだ。自分の人生は今まで、何もなかった、と思っている人は、自分の期待した通りのことが何一つ、起こらなかったと言っているのだろう。でも事実、期待通りのことが起こらなかった、ということが確かに起こっているのだ。これが筋書きのないドラマと言われる由縁である。

9月5日
足ることを知る、を難しく考えることはない。だって小さな満足のことだもん。
天気がよくて満足。たった一杯のウメ茶漬けで満足。これを知っているかいないかだけである。人間の欲には限りがないことを懸念したことわざ。でも、よーく、みると、どんな一流の人でも、限りがある。地球を丸ごと買えるほどの大金持ちは、この世にいない。ほっておいても、かってにある壁にぶち当たるんだと思う。どんな壁か?それは、得るものを得たら、小さな満足を求めてしまうと言う壁。

9月4日
知らないことを恐れちゃいけない。だって、その数だけ驚けるんだよ。
赤ちゃんがヨチヨチ歩きだしたときの記憶は残らないもの。しかし、もし、残っているとしたなら、すごいと思う。見るもの、触るもの、みな、おっ!わぁ!となる。大人でも、ちょっとした暇つぶしのつもりで参加した会で、知らないことを体験し、けっこうよかったなぁ、と思うことがある。僕も最近まで、知らなかったことがある。それは、竹の物干し竿を作る職人がいなくなって、竹の物干し竿の方が高いということ。驚いた!

9月3日
次に何をしたらいいの?と思ったら解らないでもやってみること。
次に何をしたらいいのか、解らないと思っている人は以外に多いと思う。自分が解らないことを、人に解るはずがない。でも安心してほしい。最初は解らないことでも、やっているうちにおもしろいことが起こるからだ。それはやっている内に解ることが日に日に増えてくるのだ。日に日に増えてくると、その流れの中で、次に何をするのか、解ることがでてくる。これをまた、繰り返していると、やがて、次に何をするかがはっきり解る。ハイこれでOK!

9月2日
諺に「帯に短し、襷に長し」と言うのがあるが、そこから工夫が始まる。
使いたい所に、短い場合は、短いもの同士を結んで足せば良い。使いたい所に、長い場合は、丁度合うように切れば良い。切るなんてもったいない、と思っていたら、いつまでたっても、本当に帯に短し、襷に長しになって、使いようがない。運よく、それを使う日がくるのを待つしかない。使うということは、形を変えたとしても、それを活かすこと。活かせば、もったいなくはない。使わない方がどれだけもったいないか、考えてほしい。

9月1日
最後まで何が起こるかわからない事と、最後まで何があっても諦めない事は似ているようで全然別もの。
例えば野球なんかで9回の裏、Aチームが5点差のままBチームに勝っていて、ツー・アウト、ランナーなしまできた。誰もが、Bチームはもう負けるなぁと思った。Aチームはあと一人の局面から、Bチームの選手に初球をホームラン!される。そこからBチームが猛反撃で、終わってみれば、5対6でBチームのサヨナラ勝ち。まさに、最後まで何が起こるかわからない事が起こった。見ているものだけが諦め、選手たちは最後の最後まで諦めていなかったのだ!