一日一言

12月31日
何事も精魂こめて! 
何事も力をセーブしていると、体がセーブすることを覚えてしまう。そしてセーブすることで反復運動の幅が狭まってしまう。幅が狭いということは、ものを捕らて精魂を込める範囲が狭くなるということ。ものを捕らえる範囲が広ければそれだけ精魂を込める範囲が広がるため、セーブなんかしていられなくなる。現代人は何かと疲れるからということで、セーブしてしまうため、当然幸せもセーブがかかる。精魂込めている人は精魂込めた分、やっぱり目一杯の幸せが訪れる。

12月30日
空腹は病退け、満腹は病を招くと貴ぶなり! 
腹が立っているときでさえ、人は食を欲する。そんなとき腹が満たれば、怒りも削がれる。満腹でほっとしたれば、気がゆるむ。そこを病は狙っている。しかし、空腹なる者は常に空(カラ)の状態から逃れることを強く望むため、何か少しでも腹に入れられる物がないか求める。そのため、病が入るすきがないのである。空腹にも一考があることを貴ぶなり。

12月29日
恥から学ぶことを訓えという。
恥から学ぶことは、人生訓になることが多い。たが恥をかくということはどんなに、みっともないか、だからしないか、恥ずかしいかを教えすぎたり、あらかじめ教わってしまううと、何もしないうちに、[恥ずかしい思いをしたくないから、その道には興味をもたないでおこう]としてしまう。それは、大変な量の体験を逃すことにもなりかねない。恥をかくことは、恥ずかしさと引き替えに自分が自分自身に誓うことを学ぶ最高の体験である

12月28日
掃除の上手い人は自分の心の整理も上手い人。
掃除を上手くなるためにはどこが一番汚れがひどいか見抜く目を養わなければならない。一番汚れのひどいところが分かるということは一番手間がかかるところが分かることに等しい。そうすれば次に段取りが組める。掃き掃除、ふき掃除をどこからはじめて、どういう風に仕上げをイメージするか。つまり掃除は知的作業なのである。仏門徒はこの知的作業を作務(サム)という。この知的作業は自分の心を整理するときの作業と同じ。

12月27日
‘かもしれない’に惑わされないように。
‘かもしれない’という表現は、不確かのとき使う言葉である。それなのに、<絶対そうかもしれない>!?と矛盾した表現をする人がいて、さらにその矛盾に気づかずに、<絶対そうよ>と聞く人がいる!!!!!。不確かは不確かであるし、絶対は絶対に変わらないものをいうのである。だから人から、……何々かもしれない〜と聞いたなら、本当のことは言っている本人でさえも分からないと思って聞くこと。

12月26日
子どもは良いことをいっぱいもってる。大人はいっぱい良いことを求めてる。
子どもは欲が無いから動けば良いことにぶちあたる。大人は欲がいっぱいあるから、効率的で高価なものを求め動いてしまうために良いことがどんどん逃げていく。子どもはさすがだね。

12月25日
好きなことを好きなときに好きなだけしていることを‘好き’っていうんだよ。
好きなことを好きなときにしてると、いつまでやってんのって言われる。好きなことだから、いつまでもしていたいし、好きなときにやめたいしって思ってる。それで好い。大人に好きなものは何ですかって訊くと、急に言われてもって大抵の人がいう。子どもに訊くと、<これ>とか<あれ>とか、直ぐ出る。それだけで、本当にそれが好きなんだなぁって伝わってくる。人を好きになるのも同じ。

12月24日
子どもは親に甘えていいんだよ。でもね親が子どもにあまえちゃいけないよ。
電車の中で40半ばぐらいに見えるお母さんらしき人が、携帯で話していた。「私はあなたのいうことは何だってして上げてきたわ。だから私が今、困っている件で、息子のあなたが力を貸すのは当たり前じゃない!!!!!?」と。あたりは不謹慎にも電車の中で話され、さらに聞きたくもない不謹慎な内容に唖然!お願いです。親のみなさん、どうか子どもが社会人になっても、甘えることのないように!

12月23日
自分の得意とするものが分からない動物を‘人間’という。
人間は動物の頂点に立つ生きものである。しかし文明人は自分が何が得意で、その得意なものを活かして生きていくことがいつのまにかへたになった。動物なら足が速いものはその足を利用し、鼻の長いものは人の手のように食物を口に運ぶ。動物は生きるために自分の得意を活かす。人間はどんどん自分が何が得意で、その得意なものを活かす能力が衰えはじめている。

12月22日
話し合う。そして語り合う。
話し合って話し合ってまだ話し合うと、ある時点から語り合いになる。反対に話し合って話が合わないと次に話し合うときも、初めて話し合ったときと同じ話し合いをすることになる。話が“合う”“合わない”は誰が判断するかというと自分である。であればお互い合わそうと極力つとめなければならないと思う。コンセントを元に差し込んでいなければ入り⇔切りのスイッチをカチカチしていても明かりはつかないのである。

12月21日
今日まで生きてきた事実。これだけあればいいじゃないか。
明日を迎えるまえに、することがある。今日まで生きてこられた事実。自覚はなかったけど今日まで生きてきた事実。どんな形にせよ今日まで生きている事実。それに感謝すること。明日を迎える前に感謝する。すべては命あってのものだねと知る。たったこれだけのことが顔つきを変えるもの。

12月20日
何もわからないことは確かにある。しかしその後に解ろうとするかしないかで長がでる。
解らないままほっとくも解ろうとすることもすべて自分が決めたこと。後になって「だって解らないもん」とか「知らないもん」とか言わないこと。解らないことは本来、一時の恥のはず。それを自分だけが解らないのではないと開き直ってしまって、それっきりにしてしまうことは誠にもったいないと感じてこそ長じるのである。

12月19日
運は、運ばれる運!と、運を運ぶ!場合がある。
運は変幻自在の秤のようなもの。やじろべえのようにふらふらすることによって運があっちへいったり、こっちへきたり。また分銅をのせて釣り合いをきっちりとってメモリをだす運もある。いろんな種類の計測機のように運はあらわれる。そのため運をつかんだと思った瞬間スルスルっと逃げたり、もう何もかもおしまいだぁーと思ったら運よく良い報せが届いたり、間一髪助かったりする。運はつねに何かに乗っている。

12月18日
脚を遣わずは私淑を逃がす。
私淑とは、自らが世の中を凝視したとき出会いはなくとも、テレビ・ラジオ・新聞などを通して、その人の人柄や考え方をひそかに尊敬し、その人の本や生き方から自分が学びとり、人生の師として敬うことをいう。これが不思議なことに、苦労して脚をつかった人とつかわない人とでは雲泥の差がでる。例えば誘われたけど、とてもそんな気分じゃないといって脚を向けなかった人はその人物に会えず、ちゃんと行った人は人生を左右する出会いが待っている。

12月17日
師走こそいつも以上に落ち着いて。
師走とは、仮にいつも落ち着き払っている師でさえ走らざるおえないほど年の瀬はやることがいっぱいあるという意。我を見失いそうな状況が、たくさん集まる月だと知ればこその心の知恵。あせらない、あせらない!

12月16日
小さな達成感と言えど値打ちがある。
小さな達成感とは<明日は必ず倉庫のかたずけをするぞ>と決めたら、ちゃんと翌日にやりきってしまう。なんでもいいのだが、自分で決めたことを自分が守るということを実践する!これがなかなかできそうでできない。自分が決めたことなのに…。誰にも言っていないのを良いことについついズルをしてしまう。だから小さい達成感と言えど、やりきったときにはそれなりの値打ちがあるものなのさ。

12月15日
思いこんだ思いやりは思いがとどかない。
思いこみの激しい人は、今度会ったとき、あの人にこんなことしてあげれば喜ぶかしらとか、ひどい人はこんなことしてあげれば喜ぶに‘ちがいない’と断定している自分に気がつかない。そのまま、これこそ私だけが気づいた思いやりだと心底思いこんでいる。気がつく点がほんの少し違うだけで相手に思いがどどかない典型である。相手があなたにしてほしいことは、まったく別の、自分には想像もつかないことの方がほとんどである!

12月14日
自分ほど一番頭にくる存在はいない。
自分の身勝手さに頭にくる。自分のいくじのなさに頭にくる。自分のドジさに頭にくる。他にも、限りがないほど自分に頭にくることはある。他人で頭にくることより自分で自分に頭にくることのほうが頭にくるということを知るべし。是、人生の理りなり。

12月13日
人一人がすることなどたかがしれていると悟ってこその友。
人が生きて往く上で自分ひとりでできることと、自分ひとりではどうしてもできないことが発生してくる。自分ひとりではどうしてもできないことは人の助けが必要になる。技術や知恵の救けが必要なときもあれば、物やお金の援けが必要なときもある。この御時世、人間ひとりが強がったってたかがしれている。それを悟ったとき、支え和える友がいることを何と心強いと思えることか!なんでも言える友は宝物と思うべし!

12月12日
影も形もない気持ちだからこそ伝わる。
気持ちの正体は影も形もない。だからどんな処だって入りこめるし、どんなに遠くたって気持ちは飛んでいく。気持ちはモノに封じ込めることができる。それが本ならば不思議なことがおこる。100年前の作品(過去)から、読者に気持ちを伝えたり、今の気持ちを物語に織り込んで未来の読者に伝えたりできる。気持ちの伝達には、直接伝達、間接伝達、転写伝達(ワープ)、時空伝達がある。だからこの時期、その気持ちを勇気をだして伝えよう。

12月11日
どんなときにも心の笑顔を絶やさない人を親という。
真の親に出会った。自分の肉親が亡くなったにも関わらず、自分以外にこれ以上私のような悲しい思いはさせまいと、みんなに気配りし、先を切って故人の思い出話をしながら笑顔を絶やさない。そんな背中を見せられたとき、親孝行したいときには親がいないということわざを思いださせられた。親の笑顔にかなうものなし。子どもの笑顔に尊きものはなし。

12月10日
何もかも仏さまはお見通し!
いくら誤魔化そうとしたって、ウソをついた瞬間、自分の中の自分はウソをついた自分のことを知っている。この知っている自分は心の中で常に生息しているため仏さま同様、実態はない。しかし、いつも存在しているため、決して誤魔化しきれないのである。自分を誤魔化せないようにいつも仏さまは、監視しておられる。そのことを常に肝に命じ心に修め行動することを‘修行’という。

12月9日
苦言を喜びとするは‘人生の徳’。甘言を喜びとするは‘人生の不徳’!
苦言を聞いたとき、自分のために言ってくれていると思える人は、その瞬間より心の薬となる。心からすればまさに‘良薬苦し’である。この苦言の薬が心に効いたとき‘徳’となる。対して甘言を聞いたとき、うれしくてのぼせるならば、怠け心に作用するため、それを重ねるならば‘不徳’の致す処となる。つまり、厳しい言葉に感謝し、甘いことばを退けることが、人生の糧となる。

12月8日
みんなのおかげで今日まで生きてきました!
今日はなぜかほんとにうれしいのです。この嬉しさはみんなから授かったものです。こんな気持ちにさせてもらったみなさんに、なんとお礼を申し上げたらよろしいかと。そんなところから今日の一言込み上げてきました。つまりみなさんに訓わらせていただきました。ほんとにありがとうございます。

12月7日
酔うことは何も酒ばかりじゃない。自分だけの酔いを楽しもう!
あるミュージカルや芝居を観にいって人に酔う。ある音楽会を聴きにいって曲に酔ったり音色に酔う。すてきな景観に酔い、足元に咲く花の香に酔う。詞や歌に酔う。いいまわしの巧い文章に酔う。恋に酔う。美しさに酔う。綺麗さに酔う。酔うにしてもいろんな酔い方、酔い形、酔い型があると思う。僕は何より、一冊の絵本であっという間の2時間が過ぎる酔い方がたまらない。

12月6日
気持ちのこもった行いを‘すずめの笑顔’という。
箸ひとつ並べる、わずかな行動にも、差し出がましくならないよう気持ちをこめて並べると、その行いは、必ず相手様につたわり、笑顔がこぼれる。これを‘すずめの笑顔’という。由来は、すずめは、どのすずめも同じ顔のように見える。しかし気持ちをこめて、一羽づつちゃんと表情を見ていくと、みんな微笑んでいるように見えるところから、気持ちをこめた行いに出会ったとき、こう云うようになった。

12月5日
信じるという漢字は「人」に「言う」と書くのさ。
あいつは信じられないやつだ、という人に限って、この「信」という字の作りを思いだしてほしい。自分は人に何にも言わないのに、人を信じたり信じてもらえる訳がない。逆にどの人にも信じてもらいたいなら、自らは包み隠さず何でも話す姿勢がのぞましい。人を信じられないと言う人は、今までに、[あの人は、人を本気で信じているなぁ]と感じる経験に乏しいと思う。いいじゃないか、だまされたって……。

12月4日
喜怒哀楽に暖と冷あり。
喜びの暖は、その知らせでみんなが心から喜びあえる。冷はその知らせを聞いて、策をめぐらす心をいう。怒りの暖はその主張によって、みんなに勇気を与える。冷はその主張が我が身かわいさからくる命ごいとなる。哀しみの暖とはあまりの切なさが、みんなの心に潤いを生む。冷は哀しみと悲しみに耐えられず自ら心の貧しさをさらけだす。楽しさの暖は火さえあれば、それを囲み話に華がさく。冷は火の明るさや温もりに近寄ることができず。

12月3日
温暖なれば動き、寒冷なれば静なり。
樹は、春の温かさや夏の暖かさを感じ、葉を緑にそめたり、実をつけるために動く。さらに、四季が移り、秋の寒さや冬の冷えを感じ、風の力を借りて葉を落し、冬に雪や風で枝が折れて、自らの体がケガをしないよう、静かにしている。樹は、生き抜くために、こんな理にかなったことを身につけている。

12月2日
今日に全力なればこその未来であり、過去である。
全力とは体力の続く限り目一杯、動き回ってくたくたになる一日を言っているのではない。生きることの全てにそのとき、必要な力を必要な量だけそそぎ、その日を一生懸命生きなさい、という意味の全力である。適宜、そこに意志がうかがえる行動こそ、すてきな今日を送り、それが明日につながり、過去にどこを歩いてきたのか、すぐにわかるしっかりした足跡を人生に遺すことになる。

12月1日
逝くまで生きる。  
人はいつか別の世界へ逝く。逝くまでにどう生きるのかは、誰もがぶち当たる自分との対話の瞬間である。なにもかも正解があるわけではない。この判断は正しかったのか、正しくなかったのかは生きていないとわからない。僕が今日まで生きてきてこれは正解!と思えるひとつに、笑い和える仲間との出逢い、がある。人は逝くまでのあいだに、幾つの正解をみつけるために、生きてゆくのかもしれない!