一日一言

7月31日
何?、ドキッ!が大事。
それなに?と思うことは、それを分かろうとしたり、ものを知ろうとするための脳内活性になる。さらにドキッとすること(驚き)は人間がものを学ぶための興味をもつために必要な感性刺激となる。子どもたちはこの夏休み、いくつのなに?を発見し、いくつのドキッ!に出会うのだろう。僕も子どもたちに見習って、たくさんの?と!を見つけようと思う。

7月30日
足りる!足りないは心うち。
100円で数えきれないほどの種類が買える時代。ということは逆に、100円でしかものが売れないぐらい、世の中に新品のものを造りだしていると考えてもいい。100円でもいらないものもある。ならば、もう一度、今の自分にとって、あとちょっとで足りるなぁと思うものを拾いだしてみよう。ある人は心の矛先が決まるはず。無い人は、すでにものでは足りているということに気づけたはず。気づけば、あとは自分に本当に必要なものを捜しにいこう。今度こそ時間をかけて。

7月29日
勝つ、且つ、活、喝ぁーつ!
怠けようとする己に勝って、且つ、(その上  で)死中に活を見いだすべく、大声で喝ぁーつッと気合いを要れよう。ここ一番、僕はいつもこれを実践している。

7月28日
梅雨が明け、涼しい音色、はばきかせ。
朝、廂の隙間から青空がのぞいていた。そうこうしているうちに梅雨明け宣言。ツッカケを履いて近くのお店まで歩く。その間、出番がくるのを首をながくして待ってましたといわんばかりに、風鈴がいい音色を響かせていた。帰り道、その音色の涼やかさが、セミの鳴き声とあいまって、夏をつげていた。いよいよ夏、本番です。

7月27日
集中力は一瞬から。
カメラマン、バッター、レーサーなど一瞬を捕らえようとする人たちがいる。集中力の職人とでも言おうか。集中力をつけるには、一瞬を捕らえようとすることから始める。その内、陶芸家や芸術家、建築家など何年かかっても集中力をたやさないようになる。だから集中力って、一瞬を捕らえるために必要だったり数年かかる作品を創りあげるために必要だったりするぐらい、幅が広い遣い方があるんだと言うことをもう一度思いだしてほしい。特に、今年受験生には。一年間の集中力が求められると思う。ファイト!

7月26日
どうせ……(何々)したって、と思うことが自分を小さくする。
どうせ、という文字がくると述語は必ずマイナスになるものがくる。これでは明るく元気になれるハズがない。

7月25日
精一杯生きてる人も、一生懸命生きてる人も。
精神があっぷあっぷするほど一杯に生きる人がいる。もともと、生きることが下手な人たちで、精も魂も使い果たすのではないかと心配になるぐらい、めいいっぱいで生きていて人が良すぎる人たちが多い。次にいつも、こつこつ一つのことを汗も拭わずせっせとこなして生きている人がいる。くりかえし、くりかえし、何度でもひたむきにその作業に集中して、命を懸けて挑み続けなければ生きられない不器用な人たちがいてこの人たちもまた、好い人たちが多いんだな。

7月24日
ゆるやかな成長でいいじゃない。
いきなり大人びた成長をする子どもたちが増えてきているように思う。小学6年の女の子  が高校生の女の子に負けないほどの化粧をして、町にくりだしてくる。願わくばもう少しだけ女の子の時代にその時代でしか心に残らないものに、目を向けてほしいものだ。町へでても、危険しかない。たのしいことは自分でみつけなければならい。そのことがみえていない。町の機能として、町は、たのしそうに‘みせる’ところであって決して小学生がたのしいところではない。

7月23日
相手があることは詰められることがあると識っておくこと。
将棋や囲碁で追い詰められる。もう、これ以上凌ぐための手が思いうかばない。何度、考えても。そんなときに潔さがもとめられる。潔い形として「参りました」と声を発する。  声に出すことによって、初めて詰められた状態から解放される。したがって苦悩から解放される一つとして、潔く「参りました」と声に発して次なる展開のために善く反省して切り替えよう。

7月22日
疑えば我に返り、愚痴れば自らに孵る。
人を疑えば自分の知らぬ間に、覚えのない疑いをかけられる。人に愚痴ればその愚痴が卵からヒナが孵(カエ)るようにまったく違う形となって、自らに愚痴を浴びせられる。これは、未来でもかわらぬ人の代らなぬ様。

7月21日
心は形がないくせに壊れるんだよ。
ハート・ブレイクとは巧くいったもので、心の壊れ形がひどいと、なかなかもどらない。重傷の人は廃人のようになる。心が壊れることがあるってわかれば、壊れやすいんだからと思って人に接すれば人に優しくなれるもの。言い方がまろやかになるだけでかなりの人から、邪険にされなくなる。

7月20日
気性のさっぱりした人の共通点は迷わないという点。
小さいころから、親のどちらかがさっぱりしいて、どちらの親もわりと悩んだり、迷ったりしていなければ、その子どもは当然、気性がさっぱりする。さらに即決即断できるさっぱりさが身にしみているため、さわやかな雰囲気を放つ。絵本を読んでいると、そんな子どもたちにたくさん出逢う。

7月19日
無垢な気持ちの無垢な姿。
心や目の中に‘垢が無い’。日頃からスベスベして何もつかないぐらい凹凸が無いから垢もつかないという意味にもとれそうな無垢という言葉。子どもだと無垢な気持ちや姿はしっくりくる。大人になるとなかなかそうはいないもの。邪しまなる出来事(垢)がすぐに付着する。シェークスピアが晩年、こんなセリフを遺している。子どもは偉大なる‘父親である’と。無垢な姿を背中で語る子どもたちはまさに、背中姿で語りかけてくる親父の背中を思いだす。僕もはやく無垢なる気持ちや姿を養いたい。
7月18日
人・もの・事への出逢い
誠実に人・もの・事を捕えると、この一瞬は一生で2度あるかないかぐらい貴重なのではないかと思う域にいく。この域はただ出逢っていると、決して達することができない。どんな人・もの・事へも、誠実に捕えようとしてみよう。見る世界がかわってきて、とても新鮮である。

7月17日
初学びから向学心なくば盈科に出遇えん。
ウイマナビからコウガクシンなくばエイカにであえん。  これは、家の訓えです。何をいわんとしているかというと、なにごともまた、どの道も学びはじめから、学びたいものを身につけたり心に養うためには、学ための順や流れにそって奨めなければ本当に人生に必要な‘学び’に出遇えない。という訓えです。これがけっこう厳しいです。

7月16日
無心という心がある。
無心は無い心と書くが心がないわけではない。佛語でいうと、まず心でとらえきれない状態に心をする。その心のことを無心という。つまり、心があることを心でもってして、限りなく無いぐらいに感じさせようとする心の状況のことを無心という。簡単にいうと無心という心の状況のこと。無心で何かをすることができれば、必ず成功する。

7月15日
親にならないと判らないことが、こんなにあったとは。
例えば、何度、いっても言うことを聞いてくれない我が子をもったときの気持ちはこんな感じだったのか、とか。いくらでもある。そのとき、親としてちゃんと我が子にこう言っておこう。          ‘おまえが今いうたことは、おまえが親にならんとわからん。このことを決してわすれるなよ’と。親の知恵としてその出来事を覚えこまして、おいてあげるということ。我が子が親になったとき役に立つように……。

7月14日
緊迫感や緊張感があることを想像する。
どちらも実際に体験するとなるとなかなか機会がないもの。もし、機会があれば勇気をもってその機会を得てほしい。なぜなら集中力を高めるからである。しかしなかなかそんな機会はおとずれない。だったら普段からシュミレーションをしておく。つまり人前に立って自分が話をする姿を想像してなれておく。ドキドキしている心臓やピーンと張り詰めた空気を自分がどれだけリアルに想像できるか。それだけでも、集中力はたかめることができる。集中力がたかまると良いことだらけ。

7月13日
真似をする。これほど具体的な動きはない。
子どもは必ず、親や身近な人たちの真似をして育つ。第一段階としてまず真似をすることによって体験する。第二段階としては、そこから驚きや発見をみつける。最後に第三段階では第二段階での体験やくりかえしによって、アイディアや新しい奥行や深さにふれることによって自分らしさを身につける。このときのさまには共通点がある。それは‘オリジナル’という、だれも真似のできない型をもつという点。

7月12日
自覚を自覚すると自覚をもてるようになる。
本当の自分に目覚めたとき、自覚という感覚が養われる。自覚ってこういう感覚だったんだと自覚する。これを自覚を自覚するという。この自覚を身につけた人は、いつでも自覚の持ち運びができる。だから、すべての諸事に自覚を‘もって’行動できるのである。

7月11日
晴れ晴れとしたうしろ姿の人、少なくなったなぁ。
背中で語る人が少なくなった。うしろ姿でモノをいう人をみかけなくなった。日本語の表現の豊かさは、「目は口ほどにモノをいう」など、目にまでモノをいわせてしまう。考えてみると、日本の中にはこういった表現がピッタリの人がいたことになる。「若さあふれる青年が晴れ晴れとしたうしろ姿をのこし、社会の荒波にとびだしていった」。どうかこの表現にピッタリの若者がたくさん顕れますように。

7月10日
自惚れ(ウヌボレ)か自信過剰か。
自分に惚れると書いてうぬぼれ、とよむ。自分を愛する。いいことだと思う。ただ、ひとりの時間に惚れてください。対して、自信をもつことはたいへんいいこと。ただ、人前では、慢り(オゴリ)となる発言やふるまいにご注意くだされ。

7月9日
たった一つでいい。童謡を覚えておこう。
今、音楽の教科書(テキスト)に童謡が載っている割合は、わずか5%。日本には昔から節句というものがあり、そのたびに唄(ウタ)を歌ってきた。みんなが集まれば、歌うことによって、3才から80才までの人たちを“ひとつ”にしてきた。大切な伝統が培われていることがうかがえる。しかし、口づさんだり、教科書からなくなろうとしている。こんな時代だから、その家でたったひとつの童謡をおぼえておきたい。久しぶりに「七夕」を家族で唄った。ササノハァー サーラ サラ〜

7月8日
言葉で伝えられないことがある。だから、表情がある。
子どもがサイダー味のアイスキャンディーをほおばって、にかっと笑う。その満足そうなうれしそうな顔。このおおらかさは、言葉ではいいあらわせないので、その表情を想像していただくしかない。子どもを見てるとたくさんの表現できない動きがある。この言葉をつかって表現しようとする、僕の方が子どもに思える。

7月7日
ようやく‘親を大切にしよう’から、‘大切な親なので’……しようと思えるようになった。
僕は永年、親を大切にしなきゃと思ってきた。それがいつの間にか‘大切な親だから’電話しようとか、これをもっていってやろうとか、あれを送ってやろうなど、普段から大切な親だからと思えるようになった。数々の親不孝がおもくのしかかる。まだまだこんな思いだけでは、ぜんぜんたりないことが情けない。僕の好きな言葉に吉田松陰のこんなセリフがある。「親思う心に勝る親心。今日のおとずれ何と聞くらむ」

7月6日
上手くいかないのは、欲がからむから。
上手くいかないときは、必ずどこかに、無理な想像からくる‘欲’がからんでいる。子どもはよく、なんであんな無理が通ったんだろう、とおとなが思うことが通る。あれはなぜか。簡単!無欲だから。

7月5日
したいことが見つかった人の人生はつよい。
したいことがみつからないまま人生を終えるのが常である。ところが中にはわきめもふらずその道にうちこむ人が現れる。うちこめるものに出会えたしあわせに気づいたとき、心の強度(ツヨサ)が増す。

7月4日
子どもは、大人を“期待はずれ”の状態にして身を護っている。
期待はずれ、を目のあたりにした大人たち。すでにそんなことはお構いなしで遊んでいる子どもたち。大人はかってに期待し、その期待通りに子どもたちがそぐわないと平気で、がっかりのオーラを出す。この無神経さに日本中の大勢のおとなが気づいていない。そのオーラをいち早く感じている子どもたち。あの感じがいやだから子どもたちはおとなの期待を‘はずす’ことを実行して、身を護っている。やっぱり、すごいなぁ、子どもの能力わぁ!

7月3日
止まるのではなく停まって、ものを観る。
止まるのは、しばらく休む感がつよい。車でいうならエンジンキーを回してストップさせる感じ。では停まるとはどういう状態かというと、エンジンはかかったまま、いつでもすぐ発車できるように、停まっている状態をいう。つまり、アイドリングの状態。これからの時代を観て、いつでも一歩がだせるよう、停まり方のウマイ人が安全確認もウマくて、人生を円滑な走行で往けることになると思う。

7月2日
子どもから認められるうれしさ。これを至福という。
目の前に年のはもまだ幼い子どもたちが100人ちかくいる。これはかなり精度の高い感受性アンテナが100本立っているのと同じである。その前でおとなが何かする。だが子どもたちに面白くないと受信されれば「つまらない」と平気で言われる。その恐ろしいさは他にない。その恐さを識りながら、また何かする。ウハハハとか「おっさん、おもろいなぁ」とか言われだれひとり、よそを向くことなく、こっちをみている。この認められ方を味わったとき至福につつまれる。

7月1日
何ごとも、確実な一歩を。そして一歩づつを確実に。
確実な一歩とは、自分がいま右、いま左とちゃんと解りながら歩くと言うこと。それがクセになったら今度は‘確実な一歩’と言う、一歩を毎日、確実に実行していただきたい。僕にこれを説いてくれた人は今でもこれを実行され、いろんな人たちから人望厚く慕われています。みなさん、ひとりひとりにも人から慕われる人になっていただきたいなぁと思っています。なぜなら、そんな背中姿をみせる大人がふえることによって、子どものためになるからです。